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「でも、彼女は酒が飲めないんだ」
「ノンアルコールのドリンクもたくさんありますよ」大森さんはにこやかに言った。「あちらのお客さんもお酒は召し上がらないんです」
「へえ」
修治は隣のテーブルに視線を走らせる。二十代後半と思しき女性客は、いくぶん上気した顔でマスターと語り合っている。ひとりで来ているし、マスターや大森さんへの接し方はいかにも親しげで、この店に通い詰めていることは明らか。酒も飲まずに、マスターと話しに来ているのか。
マスターの端正な横顔を眺めつつ、修治は思った。なるほどねえ、そういうことか。
「大森さん、恋人は」
さりげなさを装って、訊ねる。
「へへへ」
大森さんは笑いにまぎらわす。何だ、いるのか。修治はわずかに落胆した。
まあ、俺には関係のない話だ。佳世子がいるんだし。
木枯らしが吹くようになったころ、会社からの帰宅は終電になった夜だった。
駅から裏道へ入るところで、修治は男女の二人連れとすれ違った。
あ、と思った。
そっと振り向く。男が女の肩を抱くようにしている。街灯に照らし出された横顔。間違いない。マスターと大森さんだ。
あの二人、そういう仲だったのか。裏切られたような気になる。
いやいや、なにもこんな気分になる理由はない。俺には佳世子がいるじゃないか、と慌てて思い返す。
とはいえ現金なもので、それ以来、件の『スペイン風居酒屋』にはぱったり足が向かなくなった。
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