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その3
「ずっと気になってるんだが‥
見せて貰えるかな‥‥背中の…」
彼は髪の房を前に回すと、シャツを少しずらし此方に背を向けた。
「‥‥まだ途中だから他人に見せられたモノじゃナイけど」
左肩から肩甲骨‥背骨にかけて繊細且つ妖艶な美女の上半身、更に右脇腹に向かって美麗な曲線が描かれている
「いや‥これは‥‥見事だ‥‥人魚か‥‥‥‥羽根…?」
「飛び魚!…彫師の趣味(笑)」
クスクスと笑う彼の逞しい背筋が波打ち、人魚が跳ねる。
「‥ありがとう…」
危うく人魚の縁取りに触れそうになり、振り切るように私は彼の肩にシャツをかけた。
「身体に刻む大事なものを、君は他人任せなのかい?」
シエルは居ずまいを戻し、グラスのソーダをカラカラとかき混ぜるとストローを噛んだ。
「これは僕ンじゃない。
ボクはあくまでもキャンパスだから…物に意思なんて無いもんね。
へのへのもへじを描かれたって文句は言わない…」
「‥聞き捨てならないね‥」
「アハハ♪
見学してみる?僕の墨入れ!」
自分の身体を只のキャンバスだというこの青年こそ、はるかにミステリアスである。
アーティストとしての好奇心と、
彼が信頼を寄せる彫師への関心。
施術の現場に立ち会うことが可能なら、私に断る理由などあろうか…。
しかし、その誘いの台詞は彼の軽い戯れ言にすぎないと解っていた。
何故なら、
描かれた人魚の緻密な鱗の陰には、暗号のように淫靡な愛の言葉がいくつも刻まれていたのだから…。
ALL OF ME(私の総て)
I love you with all my heart.
(全身全霊を掛けて君を愛す)
My pussy・cat (僕の仔猫ちゃん)
FOREVER MINE(永遠に僕のもの)
Devour you!(お前を貪り喰う!)
My body wants you.
(僕の体が君を求める)
I will engrave my soul in you. Dec.2017
(俺の魂をおまえに刻みつけよう)
これから夕食の仕込みだというシエルの邪魔にならぬよう、私は私で作業部屋の準備をするつもりでいた。
部屋の扉を閉め独りになると、弾丸のように通り過ぎた恋のダメージが結構効いてることに気づく。
画材の梱包に手もつけず敗北感に項垂れた。
アップダウンの激しい日だ。
こんな調子で私はやっていけるのか?
早いうちに都内のアトリエに戻った方が…?
明日にでも担当に相談し、旅館なり山荘なりを探してもらおうか‥。
しかし、ターボ級の失恋から立ち直る特効薬は、他でもない。
私の名を呼ぶシエルの声であった。
Knock, knock.‥
「出海さん‥いずみ?
‥‥早速仕事なの?食事の準備が出来たよ、キリのいいところであがりなよ。スープ冷めちゃうよ‥」
「ああ♪直ぐにいくっ!」
もう何年もこうして一緒に暮らしてたような気さえしてくる。
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