1. なぜ、絵画という物を歴史として取り入れようとしたのか?

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 簡単にいえば、人間自体が、もしくは、何かしらの「記憶」という形――脳に刻み込まれるものだけに限らず――という形式で「存在」「歴史」「過去」などといったものを時間上に残さなければ、その「存在」「歴史」「過去」といった類のものは、物理的に消え失せる。それらを消し去った後にもう一度正しい歴史を作り、正しい過去を再現することはできない。 よくいろいろな小説、アニメ、漫画などに出てくる「タイムマシン」。あれも一切の例外はなく、「時間」というものに書かれた「存在」「過去」「歴史」を、もう一度読んでいるだけのことに過ぎない。 勿論、現代の科学では、「タイムマシン」というものは、物理的にしか作れない。空想の中でしか作ることができない。アインシュタインが考え出した「相対性理論」も、実際の世界、つまり、「使用」という観点から見ると、「過去」という時間上に書かれた文章を読むことには使えないのだ。 それでもなお、人間は、「歴史」というものを知ることができる。勿論、それは時間上に書かれた文字を見ることができているからではない。「歴史」「過去」そういったものを示す「物体」があるからだ。書物。銅像。陶器。肖像。文章。武器。戦場跡。城。語り継がれたもの。港。建造物。とにかく、そういう「物体」が、人間に「過去」というドラマを見せている。 その「過去」を見せる「媒体」が、絵画であっても同じ事だ。芸術という物であっても、大きな違いはない。 こういうことを言うために1ページを費やしたのは、ページ数を稼ぐためではない。芸術と歴史の関係性を語っていたために、こういう結果になった。 話は変わるが、例えば、この世界から「芸術」というものが消えたらどうなるだろう。芸術というものは絵画に限らない。小説も芸術の一種だし、俳句、短歌、それもある意味での芸術だ建築も芸術が関係してくる。 「ユネスコ第40回世界遺産委員会は7月17日、フランス政府が日本を含む7か国と共同で推薦していた「ル・コルビュジエの建築作品」につき、世界文化遺産への登録を決定した。」そういう記事を読んだことがある人も多かろう。大きさは変われけど、立体芸術に変わりはない。 意外と芸術というものが身近にあることを、これで感じただろうか? こうは言うが、気になることがある。 現在と過去の芸術に対する違い、価値観、概念そういった類のことだ。
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