1. なぜ、絵画という物を歴史として取り入れようとしたのか?

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例えば、昔は、仏像は宗教のために作られていて、「必須」だったわけだ。今は、日本人の特性の、「神頼み」そういったものとしてつくら得ることが多いだろう。 法隆寺地域の仏教建造物 姫路城 古都京都の文化財 白川郷・五箇山の合掌造り集落 厳島神社 古都奈良の文化財 日光の社寺 琉球王国のグスク及び関連遺産群 世界遺産だけでも、これほどの芸術がある。(ただし、それらを芸術と呼ぶかは不明だが。)(一部抜粋) 勿論、ル・コルビュジエの事も忘れてはならない。 時の流れや雰囲気に応じる時流ではなく、自分の器や正直な気持ちで動く自流で生きろ。荒木経惟はこういっている。それでも、芸術は時代に認められなければならない。ただ作り続けるしかないですね Andrei Krasulinも言う。時代に流されつつも、時代に逆らい、自分を表現する。それが芸術だろう。私は捜し求めない。見出すのだ。パブロ・ピカソの言葉。時代は関係ない。いつも時代も、芸術は心の中に存在するわけです。 芸術とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。そういう定義がなされている芸術だが、つまりこれは、「感情という芸術に対する概念」から来ているのだろう。 「芸術のための芸術」という言葉をご存じだろうか? フランス語でl'art pour l'art、19世紀のフランスで作られた標語だそうだ。「芸術それ自身の価値は、「真の」芸術である限りにおいて、いかなる教訓的・道徳的・実用的な機能とも切り離されたものであることを表明している。そのような作品は時として「自己目的的」(autotelique <ギリシア語 'autoteles')、すなわち人間存在の「内向性」や「自発性」を取り入れるために拡張された概念であると評される。日本ではこれを主義として捉え芸術至上主義と呼ぶこともある。」こういう定義らしい。 これが芸術としてふさわしい、と思う。小説であれ、俳句であれ、即ち、表現する次元が、どうであっても、「芸術」は生き続ける。
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