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Excelで作ったようなB5サイズの書類に、自分の名前を書いた。
もう、あの人の苗字には変われないであろう見慣れた名前が、取り残されたようにポツンと空欄に落ちた。
電話番号まで書き終えるのを見計らってから、植野さんはペンションの見取り図をわたしに手渡し、施設の説明に移っていく。
「部屋は二階の階段を上がって、一番奥になります。
食事は食堂で召し上がって頂きますが……まぁ、準備出来たらお呼びしますよ。
お風呂は夕方6時から10時までにお入りください。豪華天然温泉……とはいきませんけどね。
それから……」
そこまで言った後、オーナーが一瞬真顔に返ったように見えた。
「それから……山の気候は変わりやすく、足場も悪いです。夜の外出は危険ですので、くれぐれもお控えくださいね」
マグカップを持ちかけた手が、思わず途中で止まってしまう。
さっきの運転手でさえ、わたしがここに来た目的を察していたのだから、オーナーである彼が知らないはずはない。
植野さんはそれを見越した上で、敢えてわたしの行動に釘を刺してきたのだ。
つまり、ここを訪れた傷心者たちは、深夜0時のモニュメントの奇跡を試す間もなく、ただ自分を見つめて帰宅していたということか……
現実は、極めて現実的だった。
でも今は、それでもいいように思う。
苦悶をもたらすに違いないファンタジーなんかよりも、わたしはただ、この穏やかな空間に身を委ねていればいいのかもしれない。
窓の外の重い雲は、夕焼け色を映すこともなく、ただしっとりとわたしを夜の中に閉じ込めようとしていた。
もうたいして熱くもないハーブティーを溜め息で冷まし、何かに見切りをつけるように飲み干した時。
オーナーの声が、小さく「ただし」と付け加えられた。
「ただし……
何らかの事情でどうしても夜に外出しなければいけない時は、これをお持ちくださいね」
「え……?」
見取り図の横にゴトリと置かれたのは、よく光りそうな大きな懐中電灯だった。
そして今まで気づかなかったけど、懐中電灯の照光レンズは、見取り図の野外に記された『恋人のモニュメント』の位置に向いている。
驚いて顔を上げたわたしの前には、再び柔らかい笑顔をたたえた、白髪の老人の姿があった。
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