1131人が本棚に入れています
本棚に追加
グラスの水を勢いよく掛けられた。
彼女は腹の底から「死ね!」と叫んで立ち去った。
水で頭を冷やされたわけではないが「やってしまった」と、すぐに我に返った。
ウェイターが気まずそうにタオルを持ってくる。
僕は丁重に断った。
そういえば、ここは高級フレンチのレストランだ。
こんな場所で繰り広げた修羅場を見て見ぬふりをする人間などいるだろうか。いや、いない。
店内の全ての視線が僕に集中している。
平静を装って会計を済ませ、足早に店を出た。
恥ずかしすぎてこの店には二度と来られない。
冷たい夜風が吹きつけ、濡れた体に余計堪えた。
コンプレックスである天然パーマも今日はせっかくうまくセットできたのに、水を掛けられたせいで台無しだ。
こんな成りでは一人で街を歩くのも決まりが悪い。
イルミネーションが輝く並木道を歩きながら行き交う人々に目を向ける。
どこもかしこもカップルばかりだ。
……そういえば今日は十二月二十四日。クリスマスイヴなのだ。
当然、仕事帰りのサラリーマンや友人連れのグループもいるが、男女の組み合わせがやたら多いわけである。
さっきまで自分もその側の人間ではあったけれど、クリスマスは恋人と過ごすものというイメージは一体、誰が植え付けたのだろう。
嬉しそうにブライダルジュエリーショップに入る若いカップル。
一生続くことのない愛を誓わされて、自由のない生活を余儀なくされる、愛の証という名の手錠を買わされるのか、気の毒に。
昔、彼女に要求されて指輪を買ったことはあるが、僕が自ら誰かのために、よもや結婚指輪を買いに行くことなどないだろう。
何故だか急に虚しくなったのは、そんな自分の恋愛観に哀しくなったのではなく、聖なる夜に女に水をぶっ掛けられて街を歩く体裁の悪さが原因だ。
とりあえず今、今すぐ、その場凌ぎの温もりが欲しい……と、いるはずもないサンタクロースに願ってみる。
気の毒なのは誰のことだか。
最初のコメントを投稿しよう!