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は、死亡診断書と書かれた書類のように、事
務的で現実味がなかった。母の遺体も穴だら
けの骨も、私の知っている母の温もりがなか
った。今になって突然訪れた母の不在という
現実は、書き換えることの出来ない記憶であ
り、想いなのだ。
その一年間、私は暗い夜空を見上げて、遥
か彼方の消滅しているはずの星を眺め続けて
きたのかもしれない。その喪失感は、母の肉
体ではなく、聞きたいときに聞ける声であり、
私に語り掛ける言葉なのだ。
そしてその母の思い出を辿ると、私は八歳の
自分になっていた。あの日、全国模試で置き
去りにされた私。あの時は感じなかった恐怖
を今になって思い出す。母を捜して泣きじゃ
くっている今の私。
八歳の自分は泣かなかった代わりに、四十
歳になった私が、母の姿を求めて泣き続ける。
あの時心のどこかに置き去りにされた恐怖が、
今になって突然、心の表面にお湯が沸くよう
にふつふつと押し出される。知らない道をた
ったひとりぼっちで歩き、右に曲がり、見慣
れぬ景色に不安を覚え、回れ右をして元の道
に戻り、今度は左に曲がり、また戻ろうとし
て、元の道も見失い、聞いたことも無い電柱
の住所を見て愕然とし、大きな交差点の歩道
橋に登って、遠くに見える家並みの中に自分
の家を探す。
家族が寝静まった後、ベッドの中で目を開
けて、母の顔や表情や仕草や口癖や胸の前で
腕を組んで歩く姿や小さなお皿に山盛りにさ
れたモヤシや玉葱やテーブルの上にこぼれた
緑色のお茶っ葉や薄紫のスーツや門前仲町で
買ったお守りの鈴をつけた黄色いお財布やそ
の鈴の音色や小さな唇から少しはみ出した赤
い口紅なんかが次から次へと現れ、床に神経
衰弱のカードを並べるみたいに散らばってい
く。
私は声に出して母を呼んだ。
おかあさん
暗闇で見えない天井を見上げながら、母を呼
んだ。決して返事が来ないことはわかってい
るのに何度も何度も母を呼ぶ。
天井に、あの日の景色が映し出された。信
号機がいくつも並ぶ交差点。トラックやタク
シーやバン。道路の真ん中の白い線や、電柱
から延びる長い電線。マツダのディーラーの
ガラス越しのショールームに並んでいた、ぴ
かぴかに磨かれた赤や黒の車。ふたり連れの
おばさんのひとりが着ていた幾何学模様のセ
ーターと使い込んで形の崩れたがま口。道路
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