寄り道

6/8
前へ
/8ページ
次へ
パソコンの削除ボタンを押すみたいに、それ は本当に取返しのつかないことなんだ。そう、 人の死は取返しがつかない。天国から見守っ てくれようと、心の中に生きていようと、お 盆の迎え火で魂が帰って来ようと、それは全 部自分自身が都合よく創り上げたまやかし、 ダミーでしかないのだ。  母は友達に「麻耶子のお母さんって女優さ んみたいだね」と言われるくらい綺麗だった けれど、身体が弱かった。折れそうに華奢な 身体で貧血持ちで、小学校の時に学校から家 に帰って、お風呂場で額から血を流して倒れ ている母を発見したことだってある。おまけ に神経質で、デパートのお好み食堂で、ウエ イトレスの親指の先がほんの少し味噌ラーメ ンのスープに触れるのを見て、家に帰って何 回も吐いた。母はそれ以来、死ぬまで味噌ラ ーメンを食べることはなかった。そのくせ、 ひとりでご飯を食べるときは、やたら小さな お皿に野菜炒めをはみ出すほと入れて食べた り、急須は食卓に出しっぱなしで、その急須 で一日中お茶を飲んでいたから、テーブルに はいつもお茶っ葉がほんの少しこぼれていた。  母が亡くなった日、私は号泣し、その夜は 病院から運ばれた、ドライアイスに包まれた 母の遺体の隣に添い寝をした。死化粧を施し た母の顔は透き通るように白く、若かった頃 と同じくらいに美しかったけれど、朝になる と頬が陥没して骸骨のような顔になっていた。 亡くなった事実以上に、その顔をみることが とても辛かった。  翌日、兄と火葬場に行き、母が燃やされて いる間、兄と静かに母の話をした。何を話し たかは覚えていないけれど、モダンな火葬場 のガラス越しに見える、中庭に置かれた、女 性の身体の曲線を描いたオブジェや、窓の外 に広がる瑞々しい五月の緑と、雲ひとつ無い 青い空の風景は今でもはっきりと思い描くこ とができる。 ふくよかで愛想のよい中年女性の係員に、 肝臓が癌で肥大してコチコチになっていたか ら、燃やすのに通常の一.五倍かかりました、 癌は燃えにくいんですよ、と告げられた。私 は癌で肥大した肝臓というものを想像してみ た。焼肉屋で食べたレバ刺しのような赤黒い 肝臓の濡れた表面を、フジツボみたいなコチ コチの突起物が埋め尽くしている。あるいは ザクロみみたいなつぶつぶがぎっしりと肝臓 に覆い被さって、肝臓を窒息死させようとし
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加