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ありもしなかった事を事実のように、早苗の誤解を説く。
俺が必要なのはお前だけ、浮気などするものかと、鎖を解きたい一心で早苗をなだめる。
早苗は空中を見つめる猫の様に、俺の眼の奥の嘘を探そうとしていた。
口を少し開け、腫れたような厚い瞼のせいで少ししか開かない目で。無表情なその顔は能面の様だ。
その不気味さに言葉を失うと、早苗は同じ表情のまま小さくポツリと呟いた。
「……麻里」
動揺が隠しきれず、足の鎖がジャラと音を立てた。
その音が答えかというように、早苗は俺の足元に視線を落とし「やっぱそうなんだ」と言った。
「やっぱり、結婚しよ?
もうあなたを迷わせないようにしなきゃ。
麻里さんの事は許してあげる。きっともう会う事もないだろうし」
俺から離れ、早苗は部屋の隅に置かれたローテーブルで婚姻届を書き始めた。
そのさっぱりとした物言いに、麻里に何かしたのではないかと不安になった。
「麻里に、何をした」
「立会人は誰にする?
私とあなたの会社の上司でいいかな? お互い親が居ないから、こういう時悩むね」
噛み合わない会話にイライラする。
ジャラジャラと鳴る歩きにくい足元にもイライラする。
「どこにも逃げないから、鎖を外してくれ。お前、麻里に会ったのか?」
早苗に近づき婚姻届を書く手を力任せに持ち上げると、それにつられて早苗も顔を上げた。まるで我儘な子供の癇癪を見る母親のように、早苗はやれやれと席を立ち、いつも持ち歩くトートバッグから小さな鍵を取り出した。
そして俺の足元にしゃがみ込むと、鎖を繋ぐ南京錠に鍵を差し込み難なく解錠し「痛そうだね」と鎖の痕が残る足を撫ぜた。
「麻里さん……会ったよ。
可哀想だよね。自分が浮気相手だなんて信じられなくて泣きだしちゃって。
何度も、何度も何度も、助けて、って泣いてた」
本当に可哀想、という無情な声が頭に響き、一気に怒りがこみ上げて足元にしゃがむ早苗の肩口を蹴り飛ばした。
「助けて、って……お前麻里に何をした!?」
大きな音を上げて後ろに倒れた早苗は、口元から血を流してくつくつ笑う。
「……私だけ。私だけが、あなたを本当に愛してるの」
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