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「申し遅れましたが」
そう言いながら、目の前の女性は俺に名刺を差し出した。
「佐久間 杏さん」
声に出して読んでから、俺は慌てて胸ポケットから学生証を取り出した。
「大川 伊月です」
それをしげしげと眺めてから顔を上げた佐久間さんは、ちょっと悪い顔をしていた。
「伊月っていい名前ですね。いつかどこかで使っていい?」
それは俺の名前を台本の登場人物に使うということで。
あと何年かして大ヒットするドラマの中のシリアルキラーが、”伊月”だったりするのかもしれない。
「伊月くん。シナリオを書く上で一番大変なことって何だと思う?」
佐久間さんはもう客に対する態度をとるのをやめたようで、すっかりタメ口になっていた。
「うーん。何でしょう? 出だしとか?」
そう答えた俺の鼻先で、チッチッチッと指先を揺らした佐久間さん。
「出だしでもオチでもないの。もっと言っちゃうと、ストーリーでもない。一番大変なのは大勢いる登場人物の名前をいちいち考えることよ」
名前を考えるのがいかに大変なことかを語りだした佐久間さんは、確かにシナリオライターなのだろう。
でも、本業がシナリオライターなのに、ネットにこの店の広告を載せたり、客に金を払ったりして大丈夫なのだろうか。
お役所の認可とか税務署への申告とか。
俺はそういうのは全然わからないけど、勝手にこんな店を始めていいわけがない。
たぶん、このゆるふわな女性は何にも考えていないか、誰かがうまいこと収めてくれているのだろう。
例えば、さっき電話した恋人が、実はその筋の人だったり。
それから俺は佐久間さんにインタビューされる形で、自分の悩みを話し出した。
俺が演劇部だと言うと、佐久間さんはパッと顔を輝かせた。
「私も演劇部だったのよ。脚本担当」
なるほど。その流れでシナリオライターになったのか。あるいは、そういう目標があって演劇部だったのか。
「じゃあ、文化祭、見に行っちゃおうかな」
「あ、いや。うちは一般公開してないんです」
「大丈夫。私、卒業生だから」
なんと佐久間さんはうちの学校の演劇部の先輩だったというわけだ。
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