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「それで?」
悔しいくらい余裕のある顔、いや、最早この状況を楽しんでいるかのような顔で三鬼課長が問いかけてくる。
「いや、えっと…」
もう誰も残っていない静かなオフィスに課長のハッキリとしたよく通る声が響く。
「どうしました?言いたい事は遠慮せずどうぞ。」
そう言いながら課長はゆっくり私のデスクへと近付いてくる。
フロアにいるのは私達だけ。そこによく手入れされている課長の靴音だけがコツリコツリとやたら響く。
「いや、それは……」
自分のデスクで席につく事もなく立ち上がったままの私はその場から動く事が出来ない。
私の目の前で課長がピタリと止まる。その距離が近過ぎる。
「桃原さんはどうなんです?」
ほんの少し課長の口角が上がり一瞬、微笑みかけられているような錯覚にドキリとする。
けれどやはり細い黒のチタンフレームの奥に見えるその瞳は全く笑っていなくて。
「わ、私、ですか?」
何か言わなきゃ……って思うのに言葉が上手く出てこない。
「そう、桃原さんは?」
スッと伸ばされた課長の人差し指がゆっくりと私の右頬をなぞる。
課長の意外な行動に思わず体に力がぎゅっと入ってしまい、つい俯いてしまった所をクイッと顎をそのまま上げさせられた。
「か、課長……」
つい二人きりの残業に浮かれて私がプライベートな事を聞いたから、もしかして怒ったとか?
ーーー課長は特定な人はいないんですか?
なんで聞いちゃったんだろ、あんな事。余計なお世話だよね。
「桃原さんはいないの、特定な人。」
課長の整った顔が至近距離にあり息が上手く出来なくて苦しい。
つい、ゴクリ………と一つ生唾を飲み込む。そしてやっとの事で言葉を吐き出す。
「いない、です。」
素直に答えるものの未だ表情一つ崩さない課長の心が見えなくて戸惑ってしまう。
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