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「いらっしゃいませ!」
多紀さんが店に来たのはその日の夜。
いつもと変わらない、ぴんと背筋の伸びたスーツ姿。目が合って軽く会釈をすると、カウンターへと歩いてくるその顔にほんの少しだけ笑みが浮かんだ 。
「メッセージをありがとうございました。ちょうど車の運転中だったもので……」
いいえ、と返して注文の本を差し出すと、ありがとうと優しい微笑みが返ってきた。
「他に見てきたいものがあるので、ちょっと預かっておいてください」
「はい、かしこまりました」
いつものコーナーとは違う棚に向かう彼を見送って。少しだけ親しい言葉を交わせた顔が、にやにやと緩んでくるのが自分でも分かった。
隣に立っている同僚の女の子が不思議そうな顔をして見つめてくるから、慌てて表情を取り繕う。
自分でも、なんだかなぁと思うけど。
スーツ姿に車の運転、店に来る時間帯も不規則だし……営業マンなのかなぁ。
それにしてはスレた感じがないなどと考える。どうやら俺はあの人に、ずいぶん興味を持ってい るらしい。
「これを一緒にお願いします」
ややあって。カウンターに戻ってきた多紀さんが差し出してきた本に、ちょっと目を見張った。
……優しい園芸?
彼が買う本は海外物のミステリーとか社会評論とか、そういうものが多かったから、少し意外だ った。
俺の内心が顔に出たのだろう。多紀さんが困ったようにはにかんだ顔をした。
それから数日後の夜、店に来た多紀さんがまた花の本をカウンターに置いた。
「……ガーデニングとか、お好きなんですか?」
つい、聞いてみる。庭いじりが趣味には見えないけど。
「え……いや、そういうわけではないんですけど」
ちょっと、と言葉を濁した彼が、軽く会釈をして去っていった。自動ドアの扉を出て行くスーツ の背を見送る。
なんでまた急にガーデニングの本なんか買いだしたのかなと、考えて。奥さんに頼まれたのかも と思いつく。 ありそうだよな。
……どんな人なんだろう、あの人が結婚している女性って。きっと美人なんだろうな。
胸の底が、チリ、と疼く。
俺は頭を一振りした。
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