1.鍵の開いた部屋

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 なるほど、ここに住んでいると主張する以上、日向先輩にとって居室が無人になるということは私たちで言うところの家をあけるという感覚と同じなのだろう。  いま気付いたけれど日向先輩はうさぎさんのスリッパを履いていた。長い耳だけがぴょこんと足の差し込み口のへりからとび出ている可愛いやつだ。ぱたぱた、と足音を廊下に響かせながら、そしてやはり背をまるめたまま、まるで本人がうさぎにでもなってしまったかのような軽快さで歩いていく。  D棟二階の最南端からのびている渡り廊下を通過してB棟に入ると、先輩は入ってすぐ左手に現れた大きめの扉の前で足を止めた。扉はガラス張りになっていて中の様子が見える。さきほどの学生居室とは比較にならないくらい清潔感のある空間で、中年の女性たちがなにやらパソコンとにらめっこしている。 「きれいな部屋ですね……」 「最近、新しくなったからね。ここは事務。院生になると、ここの文房具が無料で手に入るんだ」  先輩は扉を押して中に入り、文房具が積まれた棚の前まで私を誘導した。クリアファイル、ボールペン、消しゴム、ノート、レポート用紙、修正ペン、ポストイット、ガムテープなど確かに多様な文房具が大量に並べられている。 「でも私はまだ学部生ですけど……」 「うん。だから僕の名前を使って良いよ。このノートに日付と僕の名前、ほしいモノを記載すれば勝手にとっていっていいよ。どう、すごいお得でしょ」 「ええ、まあ」  確かにお得だけど、それを事務の人の前で堂々と言うのはどうだろう。案の定というべきか、デスクワークに勤しんでいた事務員の方が手を休め、怪しげな目つきで私たちを見ている。私は急に恥ずかしくなった。 「よし。伝えたいことは伝えたし、帰ろう。ここは寒い」 「寒いって……もう四月になるんですよ、先輩。もう日中はあったかいと思いますけど」 「そう? じゃあ僕は一般の人より寒がりってことだね。これだって少数派なだけで可笑しくはないだろう?」 「まあ、確かに……」 「なにかほかに質問ある?」
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