2.瞬間移動

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「あの、質問いいですか、日向先輩」 「うん。彼女ならいないよ」 「いえ、違います」  五月。冬がはびこらせていた冷酷な気団を南からやってきた春が片っ端から撲滅し、一年ぶりに帰ってきたあたたかさを日本中が祝福していた時分だった。感覚器官のおかしい日向先輩はこたつに半身をつっこんで、英語論文を読みながらナスのつけものポリポリ食べている。この半年で知ったことだけど、どうもこの人はちゃんとした食事をとる、つまり定時に栄養バランスのとれたものを食べるという意識が欠如しているらしく、そのかわりに冷蔵庫に常備している大量の漬け物を息を吸うように摂取している。思考に優しい糖分をさしおいて塩分を過剰にとるっていうのは健康的にもかなり不利な気もするが、斬新ではある。 「蛍光蛍光ってよく言うじゃないですか。蛍光ってなんですか? 蛍光灯や蛍光ペンの蛍光ですか?」 「そうそう。その蛍光だよ。エネルギーを与えられて励起状態に移った電子が、基底状態に戻る際にそのエネルギー差を電磁波として放出する現象ね。蛍光灯内部にはアルゴンガスと微量の水銀が封入されていて、電子と衝突した水銀が紫外線を発しているんだ。その紫外線が塗布された蛍光物質にエネルギーを与えている。蛍光ペンに含まれているのも蛍光物質。ブラウン管なんかもそう。あれはブラウンさんが考えたものなんだけど、あれは大部分が真空管になっていて、ディスプレイの蛍光物質に電子をぶつけてエネルギーを与えているんだよ」  この研究室に配属されて妙な歓迎(というかほとんどセクハラ)を受けて以来、私は就活の合間を縫ってはこの居室に足を運び、日向先輩にくっついて研究を進めていた。もっとも理論なんてそっちのけで実験のノウハウを教えてもらっているだけなので、研究というより教育を受けているといったほうがいいかもしれない。
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