2.瞬間移動

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 今日も研究室は平和だ。  ブラインドの隙間を透過してきた陽の光が、縦に長いしましまの模様を居室の床につくっている。居室の中央だけが局所的に季節外れではあるものの、それ以外は適度な温度が居室に充満し、あたかも私の脳を緩くつつみこんで眠気を誘発してくるかのようだった。ふわ、とたまらず欠伸をひとつする。  そんな静謐な森の泉のように、しんとして穏やかだった平和に小石が投げられたのはそのときだった。水面の上にわっかの波紋が広がるように、研究室備え付けの電話機が放射状に居室内の平穏な空気を振動させた。腹を抱えて笑い転げていたナノちゃんや、漬け物を奪い返そうとニュートンを追いかけまわしていた日向先輩が瞬間冷凍されたみたいにピタリと止まる。  私が電話に出た。その用件はいささか妙だった。 *  私が電話対応をしているわずかな時間で恐らくナノちゃんの粛清にあって、ドーナツ型の浮き輪でするみたいに洗濯カゴの中にお尻をつっこんで身動きがとれなくなった日向先輩が私に問うた。 「誰だった?」 「谷本研究室の大崎先輩でした」  実は辻崎先生と谷本研究室の谷本先生はこの大学の同じ研究室から輩出された同業者で、物性実験であるのはもちろんテーマもよく似ているということから、毎週月曜の午前に合同ゼミをしているのだ。今期に入ってすでに数回の合同ゼミが行われている。  就活で何人か欠けてはいたものの、だいたいの先輩方がそこで自身の研究についての概略を発表してくれたので両研究室にどんな人がいるのかは頭に入っていた。大崎先輩は身長190センチ、体重は100キロを超えるという巨漢である。 「なんか、……図書館のあたりで辻崎先生が倒れているのを見たって。原因はよくわからないそうですが、少しだけ血を流していて人が集まっていたそうです。いちおう報告しておくって言われました」 「そうなんだ。入れ替わってなければいいけど」 「入れ替わる?」
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