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運転手が窓ガラス越しにこちらを向いて、会釈する。その顔は私が昨晩に目撃した、眼鏡をかけた年配の男性のそれだった。お父様。そうか。私はそこでようやく合点がいった。私が昨晩目撃したのは別にナノちゃんが怪しい商売に身を投じる瞬間でもなく、変態的な彼氏と待ち合わせていたところでもなく単にお父さんが娘を心配して迎えに来た場面だったのだ。二人は当然私を知らない。どうりで何度も声をかけても気付かれないわけだ。
「じゃ、じゃあナノちゃん、共有結合してないんですね。よかったぁ」
私が脱力すると、ナノちゃんが眉をぎゅっと真ん中のほうに寄せた。マスクをしていても不思議そうな顔をしているのがわかる。
「なんだぁ? その共有結合って」
「そのう、結合です。エネルギー準位が相互作用して、そのう、軌道が……」
「まあいいや。私はもう少し休むから。ニュートンの世話よろしくな」
私の言葉を遮りつつナノちゃんは内側からドアを開けて、ピコちゃんを車内へと誘導した。並べてみるとうり二つというかほとんど影分身で、とても十歳ほど離れているとは思えない。二人の姉妹を乗せた車は間もなく発進し、私たちの前からあっという間にいなくなってしまった。これは持論だが物理科は別れが潔い気がする。
日が沈んだところでもうちっとも寒くはないが、人よりも寒さに敏感な先輩が背中を丸めて、ふしゅっとまたあの不思議なくしゃみをした。
「つまらない現象だったね。あーあ、ホントにつまんない。せっかくお世話になろうと思ったのに」
「先輩」
「ん?」
「死んでください」
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