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ふたりが佇み、私を見つめている。男は諦めたかのように、動くことを止めた。
私は踏みだそうとした足を元に戻し、玄関ドアの外へ身を置いた。
男まで、あと数メートルの影は動かない。男が影に語りかけた。なにをいっているのか分からない。だが、私は彼を知っていた。
名前も顔も思い出せない。けれど、失いたくなかった人であったのだ。
影がゆるゆると私の中へ戻ってくる。
私に収まろうとした直前、「ごめんなさい」そういった。
影はしばし迷い、そして私の中へ収まった。
私は男を見つめ、口を開いた。
「あなた。あなたも、もう行ってしまっていいの。泣いてばかりでごめんなさい。どうか、安らぎを拒まないで」
男は静かに頷いたかのように見えた。
私はドアを閉めた。それから振り返ることなく、石畳を歩き、閉まった木戸を引き開けた。アスファルトの上に立つと、聞き慣れた音と色合いが私を包んでいく。
ここが私の現実なのだ。だが、私は滑稽なほど泣いていた。安堵の涙ではない。こちらへ踏みとどまってしまった後悔にだ。
影が戻ったとき、男と交わした会話にすべてを思い出したのだ。失われた時間と再度の別れに身が引き裂かれ、その場にしゃがみこんでしまいそうだった。
「帰らなきゃ」
家には子供が待っている。私はコツリとヒールの音を鳴らし、足元を確かめるように歩きだした。そして、影を残してやればよかったのだと悔やんだ。
私を私たらしめるものが失われようと、私が母であることは失われないのだ。あのドアの向こうは、私の歩めなかった道を歩ませてくれる最後の場所だった。
彼の手を取れば、私の分身は、共に生きたかった人と生きていけただろう。だが、もう二度とあの店を見付けられないだろう。
砂上のふたりを引き離し、そして捨てたのだ。
もう誰もいない砂漠を思った。いまは、ただ風だけが吹き続けているのだろう。
いつか、私ではない誰かがあの木戸をくぐり、ドアを開くだろう。
その人は向こうへ踏み出すのだろうか。こちらに夢の残骸を残して。
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