黒猫と酔っ払い

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「両親の記憶がなくなるって、じゃああの人....」 「完全ではありません、存在はうっすらと覚えているといった所です」 それってつまり、自分を育てるために苦労して死んでいった母親の人生が、単に早死にした親くらいになったって事か.... 「そういった観点からあのロレックスには全く価値が見出だせなかったんです」 なるほどなぁ。 「そういった他人の人生を欲しがる方々がいらっしゃるんです」 物好き相手に人生の切り売りか。 「さて、お客様、それでは何か査定なされる品はございますか?」 俺は.... ここまで特に大した苦労もなく生きてきた。 そりゃ辛い思いや悲しい別れもあったし、凄く嬉しい事もあった。 この左腕の時計は去年他界したじいちゃんが、俺の就職祝にと無理して買ってくれた宝物だ。 確かに金は欲しい。 出来るなら仕事なんか辞めて楽したい。 でも.... どんなに嫌な事だって乗り越える事は出来るし、辛い事はやがて笑って話せる日が来るってじいちゃんがいつも言ってた。 辛い事があるから楽しい時が輝くって教えてくれた。 自分の記憶が、自分の歴史が人生を深くするんだってしわくちゃな手で俺の頭を撫でながら笑ってた。 その大切な【付加価値】を.... 自分の、自分だけの歴史を.... 人生を切り売りなんてしたくない。  
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