睡蓮抄

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「んしょっと」  私は、小さく掛け声をかけながら椅子を持ち上げ、壁際の鏡の前に置いて、そこにのぼり鏡を磨き始めた。  私には、記憶がない。  私には、思い出がない。  私には、しがらみがない。  私には自分の名前はあった。  瑞香(ルイシャン)という自覚のない名前は。  それと、握り締められていた髪飾りが私の全てだった。  髪飾りはこの屋敷を囲んでいる同じ花が模られていた。  珊瑚でできた、薄紅の花びらを幾重にも重ねた蓮の花。  瑞香という名前とその髪飾りだけを持って、他の何も持たず途方に暮れていた私を拾ってそのまま女中としてお屋敷に置いてくださったのは、仙人様だった。  仙人様は特に何もせず、ほとんどの日は蓮と霧に囲まれたこの屋敷にいる。日がな一日中黙って本を読んでいたと思ったら、次の日には屋敷と桟橋で繋がっている東屋で私を呼んでお茶をしながら一瞬の沈黙もなく喋っていたりする。何か真剣な顔で考え込んでいると思ったら、次に見た時にはそのままの格好で転寝をしていたりする。真面目なのか不真面目なのか、老成しているのか幼いのか、お喋りなのかそうでないのか………全く分からない。何を考えているのか全く分からない。年齢も二十代と言われても、五十代と言われても『そうですか』と頷いてしまいそうになるほど曖昧だ。ただ分かるのは、喋り始めるときの癖が、長すぎる黒い前髪を鬱陶しそうに掻き揚げることで、その喋り方が変に文語がかっていることだけだ。はっきり言わせて頂くと変な人だ。  しかし気紛れな仙人様も私にはよくして下さる。何せ身元も知れない記憶喪失の女を雇ってくれる。恐らく私がいなかったら私がいなかったで全く何も困らなかっただろうに。何せ私が任されている仕事は屋敷の掃除……特に家中のあちこちに張り巡らされている鏡を磨くことだけだ。仙人様は仙人だから食事の用意も要らないし。  私がそのうちここを出ると言っても、微笑んで首を振るだけなのだ。無理をしなくてもいいと。どうせ記憶がないまま外界に出ても余計に困るだろうと。そう言ってやんわりと止めるのだ。だから思わず甘えてしまう。いつかは記憶を取り戻して、外に出なくてはいけないのに。  そうして時間の感覚もなく、何日も何週間も何ヶ月も経ってしまっている。     * * * *
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