睡蓮抄

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 ある日、お客様が来た。私がここで働くようになってから初めてだ。  仙人様はその朝唐突に窓の外に咲く蓮の花を見ながら、 「今日は午後になったら東屋にお茶を三人分持ってきてくれないか?」  と、言い出した。二人分ならまだ分かる。私がお茶に呼ばれるということだろう。しかし……何故三人分? 仙人様と私以外にここには誰もいないはずなのに。 「三人分……ですか?」  思わず困惑して聞き返すが、 「そう三人分」  にやりと笑ってそう返すだけで、説明する気は更々ないらしい。こういう時はいくら尋ねても無駄だということは身にしみて分かっているので、溜息をつくだけで追求はしなかった。どうせ午後には分かるのだし、大したことはない気紛れだろうから、と。  だが、私は午後になって心の臓が止まるかと思うほど驚くことになる。東屋には仙人様と向かい合って碁を打っている見知らぬ男の人がいた。上等そうな服をしっかり着込み、髪をきちんと結い上げている。私より少し年上だろう。あまり喋らないような固く引き結ばれた唇。意思を持って強く光を宿した目。全体的に物静かなようでいて、それでも自分の意志を曲げない力強さがある。どこか良家のご子息……しかも長男、という印象がある。パッと見でも分かるほど、身なりはよかった。誰かは知らない。だけど……どこか胸の締め付けられるような感じがした。どこか懐かしい香りがした。確か……この香りは。 「瑞香……」  彼は私を見て喜びとも驚きとも安堵とも取れるような、複雑な声で私の名を呼んだ。とても初対面の人間の名前を呼ぶ声じゃなかった。
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