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私と彼は偶然帰り道に出くわした。人々が行き交う交差点の真ん中で、彼は空を見上げていた。特別何か空にあるわけではない。轟音で飛ぶ飛行機やヘリコプターも飛んでいなかった。あるのは、月と星と雲くらいだ。
思わず私は彼に声をかけていた。どうして、そんな悲しい表情で空を見上げているのか知りたかったのかもしれない。彼は私に対して、こんな綺麗な景色があるのになんで誰も空を見上げないのだろうかと言った。何も答えることができなかった。
彼と視線が重なる。私は目を逸らさなかった。
「お疲れ様です、柿崎さん。私は石目と申します。覚えていませんか?」
彼とどこかであった気がする。そういう漠然とした感覚だけが私を取り込んだ。美咲の言っていた石目くんであることを飲み込むまで、しばらくかかった。
「覚えているよ」
私は嘘をついた。本当は、記憶が曖昧で名前も美咲から聞いて知っているというくらいだ。長い時間話せば、ぼろが出る。
彼は少し不思議そうな顔をしてから、「良かったです」と微笑んで歩き出す。
「柿崎さんとこうやって話すのは、新人研修ぶりですよね」
妙に背伸びしたような彼の口調にどきりとさせられる。研修という言葉を聞いて、一つ思い出した。彼の研修の担当は確か私だった。でも、研修中の記憶は曖昧だ。あんなこと教えてもらいました、なんて言われたら、話についていけなくなる。
「そうね。あれ以来だわ」
なんか前にもこんなことがあった気がする。親子の会話、彼と一緒にいる――パズルのピースが合いそうで合わない。それと同時に心が痛む。この心の痛みは一体なんだろう。
「ねぇ一つ訊いてもいいかしら?」
「いいですよ」
「石目くんは会社やめたいと思ったことある?」
私の質問に彼は驚いた顔をした。そして、その表情は次第に真剣な表情になる。私は息を呑んだ。
「そんなこと一度もありませんよ。入って間もないですし」
私はほっとした。やっぱり、美咲の勘違いだったのだろう。新人の彼がこの会社を辞めようだなんて思わないだろうし、部長にいびられる姿も見かけたことないから辞めたいなんて思うはずがない。
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