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焼け落ちた寺からまんまと逃げおおせたN氏は、徐々に東の空が白み始める中、池のほとりで全身に塗りたくっていた墨を洗い流していた。それは使用人Yに変装するために塗ったものだ。Yは異国の人間で肌の色が黒い。わざわざ言葉も通じないその男をそばに置いていたのは、この計画に利用するためだった。
澄んだ水面に映る自分の面差しを眺めるN氏の脳裏に甦ったのは、最も信頼の置ける部下M氏にこの計画を打ち明けた時の光景だった。
「は?N様を討てと申されましたか?」
素っ頓狂な声で目を丸める姿を愉快気に眺めるN氏は無言のままうなずいた。
「そのようなこと、できるわけが御座いません」
憤慨しつつそう答えたM氏に、彼はぐいと顔を寄せる。
「何も本当に儂を討てと申したのではない。討つふりだ。七日後、儂はある寺に泊まる。そこへお主が兵を挙げて攻め入り、火を放つのだ。儂は死んだと見せかけて、闇に乗じてその場を一旦離れる。その三日後に復活して見せるという手筈だ」
その話を聞いていたM氏は怪訝な顔で首を傾げた。
「はて……何ゆえそのようなことを?」
するとN氏は床の間に飾ってあった地球儀をゆっくりと回転させた。
「その昔、南蛮にCと言う名の男がおった。その男は神の子として生まれたものの、磔刑に処された。ところが男は甦り、今や南蛮では彼自身が神として崇められているそうだ」
そこで彼は不適な笑みを浮かべる。
「儂も一度死に、復活して神になろうと思う」
「しかし、いずれ甦るとは言え、仮にもN様を討つようなことをすれば、こんどは私が命を狙われる羽目になりますまいか?」
不安げな口ぶりの部下に、
「是非に及ばぬ」
とN氏は自信満々に言い放った。
「その日のために、他の部下たちは寺から遠ざけておく。奴らが戻ってくるまでに、どこへでも身を隠せばよかろう。たった三日の間我慢すれば儂は甦るのだ。そうすればちゃんとお主の面倒もみてやるわ」
狂気すら感じさせる上司の形相を、M氏は固唾を呑んで見つめることしかできなかった。
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