3章

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 はちまるごごうしつ。  エレベーターのドアが開くなり、岬はコンクリートの廊下を駆けた。  地上八階の空気に靴音がけたたましく響く。  八○五。そう書かれたドアの前で急停止する。手に握ったままのカードキーをリーダーに突っ込んだ。  ドアの奥でガチャリと音がする。ノブの抵抗が消えた瞬間、岬はドアを開け放った。  電気が消された玄関は薄暗かった。  エントランスでも部屋の前でも、チャイムは一度も鳴らしていなかった。  いつもは預かったカードキーでオートロックを開け、このドアの前で来訪を知らせる。  しかし今日は、そのひと手間すらまどろっこしかった。 「おじゃまします!」  岬は声を張り上げると、笹原家へと突入した。  短い廊下の先に見えるドアからは、光が透けて見えている。リビングダイニングには明かりが灯っている。  お願いだから、家にいてください。  日曜日の今日、岬はそう願いながらここまで全力疾走して来た。 「先生!」  バン! と扉を開く。  薄いカーテンが風に揺れていた。ひらめく布の迫間に、日没後の空が垣間見える。  誰もいない。  岬は焦燥と共に、ぐるりと部屋を見渡した。  長方形の部屋は無人だった。灯りだけが煌々と、整頓された部屋を照らしている。  ふと、ある物に目が留まった。  キッチンカウンターの下。コンパクトに作られた十本入りのワインセラー。  十六度と言う、赤ワインの保存に適した温度に設定されたセラーの中は、まったくのがらんどうだった。  ギリッ、と胸が締め付けられた。 「確か木曜日は……全部入ってたはず……なのに」  空のワインセラーに向かって、悄然と呟いた。  その時だった。 「岬?」  はっ、と顔を上げ、リビングを見た。
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