1章

9/41
前へ
/192ページ
次へ
 その視線には落胆のような気配が滲んでいた。 「何ですか?」  耐え切れず問うと、笹原は一瞬奥歯を噛んだ後、遠慮がちに問うた。 「キミは誰かのマリアなのか?」  は? 岬は耳を疑った。  誰かのマリア?  困惑している岬の様子を見、笹原もまた軽い戸惑いを浮かべるのが分かった。 「違うのかい?」 「違うって言うか、どういう意味ですか? マリア……誰かのマリアって」  笹原はますます首をひねる。 「それなら、何でキミは……聖蜜依存症(マリアホリック)なんて病を知っているんだい?」  そう、これは一般人には知り得ない病。岬の血球血漿過生成(OHG)と共に、当事者と一部の関係者にしか認識されていない奇異な遺伝病だ。  そしてこの二つを仲立ちする組織が、甲種五類特別指定遺伝子疾患保護管理研究機関。  略して、 「〝機関〟の人に血を抜いてもらってるからですよ」  岬は簡潔に答えた。 「だから知ってるんです。マリアホリック」  うろ覚えだけれど、とは言わなかった。  しかし説明はそれで十分だった。  笹原の体からふっと力が抜けた。膝が落ちる。岬は慌てて駆け寄りかけた。 「大丈夫」  制され、足を止める。不意にパリンと音が立ち、ビクリと身をすくめた。笹原の手からこぼれたワイングラスが、床に落ちて割れた音だった。  笹原はデスクに手をついて姿勢を保っていた。 「あー、安心した」  はは、とため息交じりに笑う。そして目を伏せると、ボソボソと何か続けた。  岬はそのセリフを聞き取れず、眉をひそめた。  笹原は何かを振り切るように首を振ると、 「キミにお願いがあるんだ」  縋るような微笑を浮かべた。 「日名川岬くん。〝キョウヤ〟のマリアになってほしいんだ」  岬の名と、そして知らない誰かの名を彼は言った。
/192ページ

最初のコメントを投稿しよう!

79人が本棚に入れています
本棚に追加