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その視線には落胆のような気配が滲んでいた。
「何ですか?」
耐え切れず問うと、笹原は一瞬奥歯を噛んだ後、遠慮がちに問うた。
「キミは誰かのマリアなのか?」
は? 岬は耳を疑った。
誰かのマリア?
困惑している岬の様子を見、笹原もまた軽い戸惑いを浮かべるのが分かった。
「違うのかい?」
「違うって言うか、どういう意味ですか? マリア……誰かのマリアって」
笹原はますます首をひねる。
「それなら、何でキミは……聖蜜依存症(マリアホリック)なんて病を知っているんだい?」
そう、これは一般人には知り得ない病。岬の血球血漿過生成(OHG)と共に、当事者と一部の関係者にしか認識されていない奇異な遺伝病だ。
そしてこの二つを仲立ちする組織が、甲種五類特別指定遺伝子疾患保護管理研究機関。
略して、
「〝機関〟の人に血を抜いてもらってるからですよ」
岬は簡潔に答えた。
「だから知ってるんです。マリアホリック」
うろ覚えだけれど、とは言わなかった。
しかし説明はそれで十分だった。
笹原の体からふっと力が抜けた。膝が落ちる。岬は慌てて駆け寄りかけた。
「大丈夫」
制され、足を止める。不意にパリンと音が立ち、ビクリと身をすくめた。笹原の手からこぼれたワイングラスが、床に落ちて割れた音だった。
笹原はデスクに手をついて姿勢を保っていた。
「あー、安心した」
はは、とため息交じりに笑う。そして目を伏せると、ボソボソと何か続けた。
岬はそのセリフを聞き取れず、眉をひそめた。
笹原は何かを振り切るように首を振ると、
「キミにお願いがあるんだ」
縋るような微笑を浮かべた。
「日名川岬くん。〝キョウヤ〟のマリアになってほしいんだ」
岬の名と、そして知らない誰かの名を彼は言った。
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