3章

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 明かりを落とした校舎は、見慣れているはずの景色からずっと遠くにあった。  窓から差すぼんやりした光。物の淵にできる深い影。佇むすべての物体が、その身に闇と静寂をにじませている。  はっと身を縮める。予想以上に足音が響く。美術部の誰かに侵入者の存在を知らせてしまっては厄介だ。  荒くなりかける息を抑え込みながら、そばの階段ではなく、ゆっくりと廊下を進んだ。きっと美術部員は、解錠されたドアに近い階段から降りてくるはずだ。  予想通り、廊下の先まで進んだところで、背後の闇から明るい声が聞こえてきた。女子生徒二人、いや三人か。一人が部長と呼ばれている。教師の気配は無いから、彼女が施錠の責任者だろう。  岬は足を止めたまま待った。ドアを開ける音は、彼女たちの談笑に混じっていつまでも聞こえなかった。が、ある瞬間から笑い声が急速に遠ざかった。ガラスの戸が閉ざされた証だ。  遅れて、シリンダーが回る音が響いた。それを合図に、岬は再び駆け出した。つづら折りの階段を一気に上がる。  踊り場、二階、踊り場……三階。  けたたましく響く足音は、ここでやむなく止まった。 「っ……く……はぁ、はぁっ」  壁に手を突き、喘ぐ。頭がくらくらする。貧血状態なのは明らかだった。膝が震え、今にも倒れ込みそうだ。  それでも岬は顔を上げた。闇に落ちる、上階への階段を見上げた。  ――ねぇ、もし。  もし拒まれたらどうする?  自分の内側の自分が、不意に問いかけてきた。  笹原統也は日名川岬を求めていない。  孤高の罪びとは愚かな救済など願っていない。  オマエナンテイラナイ、なんて言われたらどうする? ミサキクン。  ミサキクン。 『岬くん』  そう動いたと願う唇の、きっと奏でただろう旋律が、耳の中で響いた。  幻だったかもしれない空気の震えが、この今、体の中を確かに伝った。  ――愛されていた気がした。 「っ、先生!」  岬は階段を駆け上がった。  鉛のように鈍る足、水に沈む水銀のように重い体。闇の中でもがき、それでも空気を掻いて進んだ。  上へ。もっと上へ。踊り場、四階。踊り場――  扉が、岬を迎えた。
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