3章

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 血液を散らす左手が頬に触れる。  体を支えていた右手が、ぐっと背中に回される。  胸が押しつぶされ、顔をもたげられ、そして――  唇がふさがれた。  彼の唇で、強く、強くふさがれた。  岬は引き込まれるように目を閉じた。両腕が、自然に笹原の背に回る。無条件の心地よさが感覚全てを包み込んだ。 「……」  一度、感触が静かに離れる。  ぼんやりと目を開けかけた刹那、再び唇が奪われる。 「――ッ!」  その痺れは足元まで突き抜けた。 「んっ……ん……!」  ギュッと笹原の服をつかむと、ますます強く抱きしめられた。  唇を開いて入ってきた笹原の舌。岬の舌にからみつき、撫でまわす。その感触は生まれて初めてのものだった。  とろけるような感覚。羞恥と、超越的な心地よさに、今にも腰が砕けそうだった。唇が触れ合っては、離れる。しかし彼の舌は執拗に岬をなぶる。唾液のはじける音が夜風の中に響く。  何の味かと聞かれれば、血の味だった。  それを含め、ただただ甘かった。  幾ばかりそうしていただろうか。ゆっくりと、笹原は岬の唇と舌を開放した。  目を開き、ほんの少しの躊躇を越え、彼を見上げた。自分の目が潤んでいることも分かった。  丸眼鏡の奥。緑色の瞳。  その主が静かに告げた。 「キミの事が好きだった」  岬は頷いた。 「誰よりも早く、キミの事が好きになった。キミとこうしたかった。あの日に戻れるならと――ずっとずっと願っていた」  ぎゅっ、と抱きしめられる。 「抱きしめればよかった。噛みつけばよかった。もっと早く自分に正直になればよかった。最初に逆方向に走り出したのは俺自身だっていうのに」  笹原がため息をつく。 「実験室でキミを拒んだ時に、決意したはずだったんだけれどな……。もう愛想をつかされたはずだから、これ以上後悔するのは止めようって。でも俺は自分が思った以上に愚かだったよ。正直に言うと、俺は鏡也に妬いていた。俺がそうさせてるはずなのに、自分自身が仕向けたっていうのに……鏡也の、キミへの感情と立場に妬いていたんだ」  きしん、と心が訴える。  そうだ、言わなきゃいけない。 「……先生、それなら僕の方も相当愚か者です」  笹原の胸から顔を離す。きつい抱擁が緩み、笹原もまっすぐ岬を見下ろした。  岬は心の促すまま微笑んだ。
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