1章

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 小さな窓がはまったドア。  ガラス越しにのぞいてみるが、斜めに置かれた棚が目隠しになって、中の様子はほとんど窺えない。  と言うか、何で斜めに置く。「通りづらいけど、まぁ入って」なんて言う前に、まずは部屋を片付けてほしい!  ほんの三日前のやりとりが頭をかすめる。岬がここ生物準備室に足を踏み入れたのは、あの屋上の一件の後が初めてだった。  高校に入学してから、笹原統也という生物教師には、週に二回の授業で自動的に顔を合わせている。つい先程も彼の授業を受けてきたばかりだ。  月曜日の二限目は生物。肝臓の構造とアルコールの代謝経路を丁寧に説明している彼が、その内側に未知の遺伝子を秘めているとは、クラスメイトの誰も想像しないだろう。岬だってそうだ。  彼の授業はいつも通り分かりやすく、和やかに進んでいった。  ただ今日は、一度も彼の目を見ることができなかった。  ドアノブに手を伸ばす。ピリピリとした刺激が、こんな所からも発信されているような気がする。 『惹き合ってるのよ』  由紀菜の言葉が耳に戻る。共鳴する遺伝子。  もしかしたら、彼も気づいているのかもしれない。岬がここに立っていること。このドアを開けようとしていること。    幸せになった。  ずくん。  その未来を願った瞬間、最後のためらいが、あぶくのように爆ぜた。  ドアノブを回す。ギッ、と音を立ててドアが開いた。 「ん、えっ?」  棚の向こうからびっくりした声が聞こえた。  ガタガタンと音がした後、長身の影がひょっこりと姿を現す。 「……失礼します」  遅れて岬は断りを入れた。  目を逸らしながら。 「日名川君」  名を呼ばれ、視線を上げた。  二限目に見たばかりの顔が数メートル先にあった。黒  板を背ににこやかに講義していた表情とは程遠い、驚きと、戸惑いが混じったような瞳。丸眼鏡の奥で二度瞬く。いきなりの岬の登場が心底意外だったようだ。  その証のように、口元にはパンくずがついていた。  岬は、自分が脱力するのが分かった。 「今、いいですか」 「ああ、もちろん」  おいで、と手招きされる。岬は室内へと入り、後ろ手にドアを閉めた。
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