1章

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 エレベーターが止まる。八階の表示。誰の何の言葉もなく、小箱のドアが静かに左右に分かれる。  再び、視界に景色が広がった。  ほのかに入ってくる風。岬はほんの幾秒ためらった後、エレベーターから廊下へ足を進めた。待っていたように背後で扉が閉まる。  まだ新しいマンションだ。  最寄り駅から徒歩十五分。ほどよく駅前の喧騒を離れた場所に立つ、十二階建ての集合住宅。一戸建てにしか住んだことのない岬にとって、この眺めは展望台か何かに佇んでいるように思えて仕方がなかった。  郊外にある丹沢高校からは、歩いて二十分ほど。岬の家とは正反対の方向だった。直線距離ではさほど離れていないが、途中に池のある公園を挟むため、やや迂回して歩かなければならない。  一歩進み、胸の高さにある手すりの前に立った。  午後五時半。九月末の太陽は、西の空で夕刻の到来を訴えている。薄く広がる雲に浮かぶ夕陽の朱。淡い色彩はグラデーションを描きながら、秋雲の輪郭を際立たせている。  空は静かに風を運んでいた。  岬は目を伏せた。そして、長く続く廊下の先へと視線を移した。  人気のないコンクリートの廊下。白っぽいグレーの壁に、黒褐色のドアが点々と浮かび上がっている。間取りが何LDKなのかは分からないが、ドアとドアの感覚から、単身向けのマンションではなく、ファミリー層を対象にしていることは確かだ。  笹原と弟の鏡也は、ここに二人で住んでいる。  無意識に、通学鞄の取っ手をぎゅっと握りしめた。  はちまるごごうしつ。  805号室。笹原家の部屋番号を反芻しながら、岬は歩き始めた。  回れ右してエレベーターへ、ではなく、まっすぐに続く廊下の方へと。  決めたんだ。もう後戻りはできない。  数歩歩いた地点で足を止め、ふっと息を吐いた。  何を難しく考えているんだ、僕は。やろうとしているのは実に簡単な事じゃないか。  笹原先生の弟に会って、僕の血を飲んでもらう。それで僕は自傷行為から解放されるし、彼――鏡也も、ネクター不足の禁断症状から解放される。  簡単じゃないか。誰も傷つかない。  そう、まさにウィンウィンの関係。血液を媒体にしたビジネスのようなものだ。  ……それなのに、僕は何を恐れているんだろう。足を踏み入れようとしている〝世界〟は少なくとも、今よりきっと幸せなはずなのに。
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