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「ちょっと失礼するよ」
すっ、と取り出されたのは、淵が欠けたワイングラスだった。そう言えばこの人はワイングラスを持って突進してきた。一緒に倒れた拍子に欠けたのだろう。
彼はそのグラスを、裂傷の真下へと差し出した。
小さな音を立てながら、ガラスの球体が深紅を抱いていく。まるで空白を満たしていくように。その様子を二人は無言で見つめていた。
一分もなかっただろう。出血は徐々に勢いを弱め、そして止まった。袋の口を閉じるような終わり方だった。
グロテスクな内部をさらけ出していた左手首は今、傷跡一つ残っていない。そうやって終わることは知っていた。何度も何百回も見てきた日常だった。
そして男も、その〝異常〟を知っているようだった。
うっとりとした目つきで、彼は今、グラスの中の液体を眺めていた。
血液――
すっ、とグラスが動く。まるで、鮮やかな赤ワインを口元に運ぶがごとく。
しかし、はっと息をのむ音が聞こえた。
グラスが止まる。男はきまり悪そうにグラスから目を逸らし、丸眼鏡を直した。
「……キョウヤ」
わずかに動いた唇がそう告げた。誰かの名前だ。
僕の名じゃない。
日名川岬は男を見上げた。
「笹原先生」
睨む目で、探る眼で、しかし確信を持った目で、すぐ前の男を見つめた。
長い瞬きが一つ。何かへの訴えなのか――葛藤なのか。分からないその瞬きの後、男はこちらを見つめ返した。
「やっと見つけた……マリアホリックの救世主」
心臓が、幻想とも思える病の名に鼓動を返した。
笹原統也は愛おしそうに微笑んでいた。
この時一瞬息が止まった意味を、日名川岬はまだしばらく理解できない。
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