一章 変わらないもの、忘れたくないもの

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     1 彼女の好きな花  僕は咄嗟に顔を上げ、両手を伸ばした。  中途半端に開けられた窓から時折、温もりのある春風が吹きこんできて、僕の髪をさらさらとなびかせる。その風とともに、花びらのようなものが舞いこんできたような気がしたのだ。  三月。アパートから見える桜の木もようやく花を開かせた頃だ。昨年よりもずっと早く春の足音が聞こえたことや、今が出会いの季節であり別れの季節でもあるということを抜きにしても、花びらが散るにはまだ早すぎる時期のはずだ。  だが再び窓の方に視線を移した瞬間、白い花びらが目の前をふわりと流れた。再び両手を差し出したけれど、花びらはそれを拒否するかのように僕の頬をかすめ、風に乗って部屋の中を舞って行く。それはまるで、一緒にこの部屋にやってきたシジュウカラの穏やかな声と戯れているかのようだった。  やがて花びらは、枝に舞い降りる小鳥のごとく、テーブルに置かれた白いキャンバスの上に優しく落ちた。  とても小さなその花びらを、そっと手にとってみる。ほのかに淡いピンク色にも見えるけど、窓ガラスを通して注いでいる光を当てると、ほとんど白にしか見えない花びら。  それは、ベランダの植木鉢に植えられた胡蝶蘭(こちょうらん)の花弁だった。  胡蝶蘭と言うと、とても大きくて厚い花というイメージがあるかもしれないが、それはあくまで大輪系や中大輪系のことであり、僕の育てているミディ系と呼ばれる胡蝶蘭は花径四、五センチくらいの小ぶりの花をたくさんつける。
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