一章 変わらないもの、忘れたくないもの

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 だから、鼻を押さえたまま再生ボタンを押して 「私だよ、私。乙川(おとかわ)だよ」  優しくて、どこか温かみのある声が聞こえたときは、一度軽い動悸がした後、くしゃみがぴたりと止まった。僕のくしゃみは、驚きすぎると止まるのだ。  「東雲(しののめ)くん、元気?」  その声は間違いなく彼女の声で、そのうえ僕の苗字をしっかりと呼んだのだった。もう思い切り息を吸い込んでも、くしゃみが出ることはなかった。  僕はそのまま呆然と立ち尽くしながら、その声の続きを聞いた。伸ばし気味だった髪をまた短く切ったこと、寝違えて首が痛いこと、空を飛ぶ夢を見たこと。乙川さんは昔となんら変わらない、穏やかで少しお茶目な声で色々なことを話してくれた。  黙って最後まで聞いていようとしたけれど、春の風景を背にした乙川さんの姿ばかりが浮かんで止まなかった。すっきりとしたショートカットに切り揃えられた艶のある黒髪。朧雲(おぼろぐも)から差す神秘的な春の日差しのように、淡い輝きに包まれた琥珀色の大きな瞳。長い睫毛(まつげ)、主張しすぎない程度に高い鼻筋、薄桃色の唇。そして、令嬢のように上品で、美しくて、どこか儚くて、それでいて無邪気で、幼児のようなあどけなさを感じさせる、その笑顔。  一度彼女のことを思い出すと、居ても立っても居られなくなって、留守電のメッセージが終わる前に、表示された彼女の電話番号を打ち始めていた。そんな自分が何だか少し子どもっぽく感じられて、情けない気持ちになった。 「もしもし」 「もしもし」 「久しぶり、乙川さん……僕だよ」 「東雲くん?」 「そう」 「すごい!久しぶりだね!」 「うん……」
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