0人が本棚に入れています
本棚に追加
だから、鼻を押さえたまま再生ボタンを押して
「私だよ、私。乙川(おとかわ)だよ」
優しくて、どこか温かみのある声が聞こえたときは、一度軽い動悸がした後、くしゃみがぴたりと止まった。僕のくしゃみは、驚きすぎると止まるのだ。
「東雲(しののめ)くん、元気?」
その声は間違いなく彼女の声で、そのうえ僕の苗字をしっかりと呼んだのだった。もう思い切り息を吸い込んでも、くしゃみが出ることはなかった。
僕はそのまま呆然と立ち尽くしながら、その声の続きを聞いた。伸ばし気味だった髪をまた短く切ったこと、寝違えて首が痛いこと、空を飛ぶ夢を見たこと。乙川さんは昔となんら変わらない、穏やかで少しお茶目な声で色々なことを話してくれた。
黙って最後まで聞いていようとしたけれど、春の風景を背にした乙川さんの姿ばかりが浮かんで止まなかった。すっきりとしたショートカットに切り揃えられた艶のある黒髪。朧雲(おぼろぐも)から差す神秘的な春の日差しのように、淡い輝きに包まれた琥珀色の大きな瞳。長い睫毛(まつげ)、主張しすぎない程度に高い鼻筋、薄桃色の唇。そして、令嬢のように上品で、美しくて、どこか儚くて、それでいて無邪気で、幼児のようなあどけなさを感じさせる、その笑顔。
一度彼女のことを思い出すと、居ても立っても居られなくなって、留守電のメッセージが終わる前に、表示された彼女の電話番号を打ち始めていた。そんな自分が何だか少し子どもっぽく感じられて、情けない気持ちになった。
「もしもし」
「もしもし」
「久しぶり、乙川さん……僕だよ」
「東雲くん?」
「そう」
「すごい!久しぶりだね!」
「うん……」
最初のコメントを投稿しよう!