第1章

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    L‐シンドローム      藤 達哉  盛り場の夜に終りはなかった。ネオンサインや街灯のあかりに照らされた酔い客が、当所のない旅人のようにそぞろ歩いていた。 池永朋彦は会社の同僚との呑み会のあと、一人で神楽坂を歩いていた。湿った春風に心地よく包まれ、彼は昔憶えた歌を口ずさみたい気分になった。歌詞を頭に浮かべた時、抱きあうカップルの姿が眼に入った。 若い二人はひしと抱きあい、顔と顔が重なり身体もひとつの黒い影となっていた。抱きあう相手もいない二十八歳の池永は、その熱い影を横目に歩き続けた。抱きあうカップルの姿は最近ではけっして珍しくなく、街のあちこちで見られる光景だった。 〈近頃はどこへ行ってもカップルがくっつきあって、べたべたしているけど、一体なにがおこっているんだ。まさかL‐エクピダイトのせいじゃないだろうな〉 池永は酩酊し、虚ろな頭でそんなことをぼんやり考えながら、メトロに乗り込んだ。席はほぼ満席で、ドアの横に立って車内を見わたすと、反対側のドアの前でカップルがまたしても抱きあっていた。彼が見ていると、重なっていたカップルの顔がはなれたかと思うと、つぎにキスをし始め互いの唇を吸いあい膠着した。 池永は暗く狭まった視野でカップルを捉えて、またかと思い眼をそらした。近くで男が立ちあがり席がひとつ空き、池永はすぐさまその席に坐った。席についてまもなく、重くなった彼の意識は深い酔いに沈んでいった。            月曜日、池永はオフィスへ出社した。彼は麹町にあるデジタル・コンテンツ制作会社、サイバー・インパルスに勤務していた。同社は三年前に設立された社員三十名のベンチャー企業で、池永は設立時に、勤めていた大手のコンピューター会社を辞めてこの会社に転職してきた。大手企業の組織と窮屈さを嫌っての転職だった。 ITバブルの恩恵に浴し、会社は順調に業績を伸ばし、入社以来、池永の仕事も多忙をきわめた。 彼はコンテンツの企画を担当していた。新コンテンツを企画し、そのアイディアをゲームメーカーやソーシャル・ネットワーキング・サービス会社に売込を図るのが仕事だった。コンテンツ業界は成長分野だが、それだけに競争も熾烈をきわめていた。彼は自身の経験と知識だけに頼ったコンテンツ創りにもはや限界を感じていた。新鮮なアイディアを生みだすために日夜苦闘していたが、新しい地平は見えなかった。
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