第13章「『ん』で始まる名前」

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第13章「『ん』で始まる名前」

『ん』で始まることばは、日本語にはほとんどない。  方言には、いくつかある。 「んだ」 といえば 「はい、そうです」 と東北でよく使われる。  マンガの中で、よく見かけることばもある。 「ん?」 なんてセリフは、疑問を感じる時によく放たれる。  だが驚いたのは、アルジェリアの現地採用講師の名前だ。 彼はコンゴ人かザイール人だが、なんと名前が、 「ンガンドウ」 という。  ちょうどそのころ、数学の講師が不足していた。そこで、ヤイがどこかから見つけてきたんだ。ムッシュ・ガリッグに引き合わせて、採用が決まった。  ンガンドウと付き合ってみると、 「やはり典型的なアフリカの人間だな」 と思った。  ここでいうアフリカ人は、普通ぼくらがイメージするアフリカ人のこと。西アフリカや中央アフリカの人々を指している。  黒光りする肌。体も顔もすべてそう。ぼくからすると、額もあごも眉も目玉もただただ黒く見える。白い歯だけが目立って、笑っているのか怒っているのか、初めはよくわからない。  だんだん慣れてくると、日本人以上に表情豊かであることがわかる。明るくて物事にこだわらない、いい性格をしている。  しかし時間にはルーズだ。  モーリス夫妻の家に昼食を食べにいっていたころの話だ。  講師仲間四人、同じ車に乗り合わせて往復していた。  だが、彼はいつも必ず遅れてくる。しかも毎日少しずつ長くなる。 ついには、昼休み中に校舎に戻ることが不可能になってきた。たまりかねたぼくは、彼にこう頼んだ。 「もう少し早くきてくれないかな? 今のままじゃ、ぼくら午後の授業に遅れてしまう」  ンガンドウは強い口調で反論した。 「おれは何も待ってくれと頼んでないぞ」 一同、あ然。 「おれは誰にも待ってくれと頼んでない!」 ひとり興奮して、どなり散らしている。ぼくらは返すことばもなかった。  その後ンガンドウはほとんど誰とも付き合わなかった。ぼくと会話を交わすこともなかった。  見かけほど物事にこだわらない、根っからの能天気な性格でもないらしい。  いや逆だ。こういう困難な事態の収拾は複雑だ。能天気だからこそ、苦手だったのだろう。  その点、ぼくは違う。  子どものころ母に反抗したことがある。ンガンドウみたいに 「誰も産んでくれと頼んでないぞ」 ということばをつい口にしてしまった。
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