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「さすがにこの時期はまだ暑いよね~!」
店の入り口の扉を開け、
開口一番に彼女はそう言いエアコンの前のテーブルに突っ伏している。
「…そんなに寒い方が良いのか?
いつも冬場は『寒いの嫌~!』と言ってるくせに。」
私はそう言いながら
『いつも』のアイスティーを
突っ伏しているその前に『いつも』の様に置いた。
…彼女がうちの店に来るようになって七年…
最初の頃は店の中と私の空気に
おどおどしていたが…
今では『ここは自分のうち!』とでも言うかのように、
おもいっきりリラックスしている…。
『…そういや、大手の音楽事務所からのオファーがかなり来てるんだろ?
まだデビューする気無いのか?』
その私の一言に彼女は、
「ん~、したくないなぁ…。
だって『その眼鏡は似合わないから替えなさい。』って、
いつも言ってくるんだもん。
誰がなんと言おうがこれだけは譲れないからね、私は。」と
いつもかけている眼鏡を外し、大事そうに観ながら
独り言の様に呟く…。
男性用のどこにでもある安い眼鏡…
元々は度の入っていたレンズをわざわざ取り替え、
伊達眼鏡にした本来は必要のない眼鏡。
そう…
この店に一番最初に来た時に、
『その眼鏡…いただけませんか?』と頼まれ、
私の渡した眼鏡…。
「…『その眼鏡だと君の雰囲気には合わない。』とかうるさいんだもん。
私は『これ』があるから曲や詞の創作ができる、
演奏することができる、
歌う事ができる。
…私にとって、この眼鏡はそういう物だから…。
…私にとって…この世で一番大切な物…。」
「…わかった、わかった。
君の人生は君の物だからね。
悔いが残らない様に生きて行けばいい。
なんか悩む時にはまた話は聞いてやるから、あの日の様に。
ま、私にできるのはその位だけだけどな。」
…昼間の暑さが和らいで季節の足音が聞こえてくる夕暮れ時…
この店の閉店時間を過ぎたらいつも彼女は笑顔で帰って行く…
…さて…
…明日あたりは…
…暖かい紅茶を催促に来るだろうな…。
…そんな事を考えながら、
私はかけている眼鏡を外し眺めていた…
…彼女に渡したモノと同じフレーム…
…お互いに『いつも身に付けている』男性向きの安い眼鏡を…。
…了…
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