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自分の人生が仮に辛く苦しく、救いのないものであれば――そのうちのいくらかだけでも、幸せな他人のそれと取り換えてしまいたくなるだろうが。
「話はわかったよ。しかし、今の僕には売る必要も買う必要もないようだ」
今の彼は一流企業に勤めるサラリーマンで、家族も家も貯金もある。とくにそれ以上の幸せを望んでいないし、進んで苦労を味わいたいとももちろん思わない。結局のところ自分には関係ない店、そう思われた。
「ま、人間、都合の悪いことは忘れておいた方が幸せなもんじゃ」
「その通りです。幸福な時間を投げ出してまで苦労を思い出すなんて」
「……おやおや。お前さん、何か勘違いしておるようじゃな」
老婆は嗤っているらしかった。
「どうやら、本当にすっかり忘れておるようじゃの」
「な、何のことです?」
彼の背筋をうすら寒いものが走った。自分は一体何を忘れ、勘違いしているというのか。
「あたしは商売柄、客の顔は一度見たら忘れんでの。売っていった客も、買っていった客もじゃ」
老婆は開いているのかいないのかわからない細い眼で、彼を、彼の真実を見抜いていた。
「一流企業のサラリーマン――そんな男が人生を売りにきたのが確か五年ほど前じゃったか。その人生はあたしが買い取ったそばから売れちまってな」
「……!?」
「そいつを買っていったのは、カネも行くあてもなしにどうにか死なずにいただけの薄汚い若者じゃった。惨めなまんま生きるか、でなけりゃ死ぬか……不幸を絵に描いたみたいな男じゃ。五年くらい経とうが何も変わりそうにない、な」
老婆の言葉は、彼の不安をかき立てた。自分の『今の』人生は、まさか!
「お前さんは今日ここに立ち寄ったのは『偶然』じゃと思っとるようじゃが、そんなことはない」
「い、いやだ。やめろ、それ以上言うな」
「今日が最後の日なんじゃよ、お前さんが自分のと交換で手に入れた、今のその人生はな」
彼は逃げ出そうともがいたが、脚は鉛のように重く、身動きが取れなかった。
「そろそろ心の準備はできたかの。もとの惨めな人生を、惨めなままおくる準備は」
あたしの見立てはよく当たるんじゃ――老婆が最後に放った言葉が、彼の頭の中を巡り続けた。
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