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「婚約破棄は婚約破棄だと言うておろうが。私はお前さん、――いや、静和と婚約をしていたんだ」
奥のカウンター席に腰を下ろしてすぐにいつものが運ばれる。なんてことはない烏龍茶だ。今日は冷えるので温めてあるそれを眺めつつも、外したマフラーを膝に置いたタイミングで、一月さんはわけの解らないことを言い始めた。
「いいいっ、いつ頃なんですか、それは!?」
「昔だな。お前さんが五歳かそこらの話だ」
動揺するオレとは対照的に、【あやかし】様はさらりと放つ。両手のひらで頬を支えながら。にやりとしたまま。五歳かそこらと言っていたが、オレ自身に覚えはないのですが。
【あやかし】様を見据えて「した覚えはありません」と続けるが、「本当に覚えはないのか?」と目を細めた。その迫力に負け、促されるように記憶を手繰り寄せるが、昔すぎて色褪せている。
そう、確かオレは――。
一月さんの料理がうますぎて、「オレのお嫁さんになって!」と言ったのだ。オムライスを一口咀嚼したあとで。
いまなら小料理屋にオムライスは雰囲気にそぐわないと解るが、そのときはどうしてもオムライスが食いたかったのだ。お品書きにはないオムライスをおそるおそる頼んだオレに対して、一月さんは「いい子にはご褒美をあげよう。味の保証はしないがね」と口端を緩ませた。このときも面白がっていたのかは解らないけれど、頭をめちゃくちゃ撫でられたんだよな。
色彩を取り戻した記憶から察すれば、『オレのお嫁さんになって!』という言葉がいけなかったのだろう。おそらく一月さんのなかでは、お嫁さんイコール婚約に変換されてしまっている。つまり、オレは五歳にして許嫁ができてしまったわけだ。しかし、待ってほしい。たかだか五歳児の判断ではどうにもならないので、親も関わっていることになる。肝心のオレ自身がいまのいままでなにも知らなかったという話だ。――話すタイミングはいくらでもあったというのに。
「すべて思い出しましたよ。間違っていなければ、ですけど。オレのひとことが婚約に繋がる意味が解りませんね」
「なにを言うか。嫁になれと言ったのは、ほかでもないお前さんだろう」
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