序 : あやかしの智

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 オレとしてはふわりと揺れるそのふたつが印象深かったわけだが、それよりももっと記憶の奥に刻まれた出来事があったのだった。足を滑らせて顔面からテーブル席の畳に突っ込んで泣きじゃくったオレをあやす姿はいまなお覚えている。  綺麗な顔でも狼狽えが解るほどにおろおろしていたかと思えば、大きく手を打ったのだ。いい案が浮かんだとでもいうかのように。そうして、ご自慢のしっぽでオレの小さな躯を包んだのだ。温もりに涙は引っ込んでいった。  ――だというのに、この〈仕打ち〉はあんまりにあんまりだ。なぜこのようなことをしたのか、まったく解らない。いや――解りたくもないけどね! 【あやかし】様が夢に立ったからこそ、オレはここに来なければならなくなったわけだし。【あやかし】様の考えを聞きに。  【あやかし】の巣窟たる花野町。駅前通りに近い二丁目――の住宅街の一角にひっそりと佇む住宅兼用の小料理屋。灯りが消された赤提灯が下がる〈お食事処・こんこん東西亭〉に――。  季節柄、吐いた息は白くなり、瞬時に消えていく。ぐるぐる巻きにしたマフラーの先が風に靡いたと同時に、勢いよく引き戸を開けた。〈準備中〉の看板が倒れたのかなんなのか横から高い音が聞こえるけれど、気にしている余裕はない。 「こんにちは!」 「昼間からお客さんかい。なんの用さね。――おやおや、これはこれは」  薄暗い店内を睨んだ先、カウンター席の奥に当たる調理場から顔を覗かせたのは煙管(キセル)を片手にした【あやかし】様――この小料理屋の店主―― 一月(ひとつき)さんである。おそらくは下拵(したごしら)えをしていたのだろうが、オレを見るなりにんまりと笑うのは夢のなかと同じだった。違うのは着物の柄が解るということか。白に沈まないような色合いの金魚が泳いでいる。  オレに近づきつつも、帯に煙管を挿すだけだというのにどこか神秘的に見えてしまうのは、やはり【あやかし】だからだろうな。一月さん自身は煙管を持ったりくわえたりしているが、形だけであり、煙を吸うわけではないと言っておこう。一応、飲食店だからね。そこは【あやかし】様の名誉のためにもはっきりしておかなければなるまい。『小料理屋といえば、着物。着物といえば煙管』という、変なこだわりを持っているだけなのだから。あ、いや、そういうのはいまは関係ないか。いまは、ね。
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