第1章

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「大学時代は山岳部で山に登っていました」 「へー、それはいい。どこの山に登ったんですか」 「日本の山と、それに東南アジアにも遠征しました」 「そうですか。東南アジアのどこですか」 「マレーシアのボルネオ島にあるマウント・キナバルです」 「それはすごい。その山のこと聞いたことがありますよ。アジアの名山のひとつに数えられている山でしょう」 「ええ、よくごぞんじですね」 「どんな山なんですか」 「雄々しく、嶮しく、それでいて優美な山ですよ」 「マサヒコさんの話を聞いてると、私もその山に登ってみたくなりましたよ」 「お薦めしますよ。ぜひ登りに行ってください」 「まあ、二人でなんのお話」 アンがトムの顔を覗きこんで口をはさんできた。 「いい山の話さ」 トムが返した。 「まあ、それじゃ登りに行くときは私も一緒よ」 アンはトムを見て念を押すように言った。トムは彼女に微笑で応えた。  トムとアンの物語は、雅彦のなかでネイサン、エリオット兄弟の話と重なった。    トム夫妻もこの緑豊かな小さな街でつつましやかな生活をおくり、あるとき年老いた自分たちに気づくのだろうか。ここに住む人たちは、時間軸を失った緑の庭園の虜のように思えた。  若尾郁子は青森市近郊で育った。高校二年の秋風が吹きはじめるころ、彼女は将来の進路について考えるようになった。           そのころになるとクラスメートの間でも進路と就職の話題が多くなった。進学する生徒のほとんどが東京の大学を目指していた。  郁子のクラスメートの綾子は、古都、京都に関心が強く、めずらしく京都の大学を目指していた。郁子は一時就職も考えたが、地元での就職のチャンスは限られ、就職を希望する生徒の悩みは深かった。 「綾子、本当に京都の大学へ行くの」 郁子と綾子は青森駅近くの喫茶店にいた。夕陽の差し込む店内には客の姿もなく閑散としていた。 「ええ、行くわ。なにがあっても」 「まあ、意志強固ね」 「そうよ、だってこの街にいてどうなるっ ていうの。なんのチャンスもないわ」 「そうね。綾子は京都が好きだからいいわ ね」 「そう、ここにはなんにもないわ。京都は 伝統文化の宝庫よ。初めて京都を旅行した ときそれを感じたの。あの時のことが忘れら れないの。まるで千年前の世界へ迷いこんだ みたいな、なんとも言えない気分だったわ」 「でも下宿するんでしょう。お金もかかる わよ」
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