第1章

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「僕たちは世界のあちこちに行って退屈するどころか、もう手一杯だろう」 「ほんとにそう。わたし、もうこれ以上飛べないわ。体力の限界」 「今以上に無理することはないさ。つぎはなににする」 雅彦は氷だけが残された郁子のグラスをみて訊いた。 「こんどはちょっと強いのにしようかしら」 「じゃ、オレンジ・ブラッサムがいいかな」 カウンターの向こうで、またシェイカーの軽やかな音が響いた。酔いのせいか、その音は雅彦の耳にひずんで聞こえた。音がやむと、鮮やかなオレンジ色に染まったカクテルグラスが運ばれてきた。 「まあ、綺麗な色」 郁子は眼を輝かせて言った。彼女の頬も赤く染まっていた。彼女はグラスを傾けひと口呑んだ。 「あら、すこし苦い」 「ジンが入っているから強すぎたかな」 「でもきりっとしてて美味しいわ。平気よ」 「無理しないで、ゆっくり呑むんだよ」 雅彦は諭すように言って、話を続けた。 「彼らは自分たちの毎日の生活に焦りを覚えてもどうすることもできないんだ。日常になにか新しいものを積み上げようとしても、できるような世界じゃなさそうなんだ」 「そうなの。でも私たちはどうなのかしら。私たちも今の生活から逃げ出せないんじゃないかしら」 「そう、僕もそう思った。僕らは毎日仕事に追われて退屈などしてる暇はないね。住んでいる世界も広い。だけど、彼らとどうちがうのかって。帰りの飛行機でもずっとそのことを考えていたんだ」 「ほんとうは、どっちが幸せなのかしら」 ほんのり酔いのまわった郁子の美しい頬の輪郭が、仄暗い照明に浮びあがっていた。夜が深まり、客が引けてバーに再び静けさが戻っていた。  雅彦が若尾郁子とつきあい始めてから季節がひと巡りしていた。彼女との出会いは入社六年目の二八歳の時だった。       取引関係の深い航空会社主催のテニス大会で、雅彦が初めて郁子に出会った時の印象は鮮烈だった。透きとおるような肌をピュア・ホワイトのテニスウェアで包みコートに現れた郁子は、春風とともに地上に舞い降りた妖精を思わせた。 プレイは混合ダブルスで進められた。ペアを組むために、男性と女性がそれぞれ背の高い順に並んだ。最初は最も背の高い男性と最も背の低い女性がペアになった。それから、二番目に背の高い男性と二番目に背の低い女性、といった具合に瞬く間にペアがであがった。                  
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