第1章

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 穏やかな週末だった。雅彦は自宅近くの公園のベンチに坐っていた。頭上でエンゼルトランペットが黄緑の葉を広げていた。葉々のあいだから大きな純白の花が釣鐘のように垂れ下がっていた。花から流れでる甘い芳香が彼をかっての熱い夏へ連れ戻した。    南洋の青空に積乱雲が湧き上がっていた。雅彦はマレーシアのボルネオ島にきていた。大学の山岳部の仲間三名で企画した夏休の海外遠征だった。ボルネオ島北西部にあるサバ州の州都であるコタ・キナバルと言う街を拠点ににマウント・キナバルの登頂を目指すという計画だった。               この山は標高四千百メーターで東南アジアの最高峰を誇っていた。  この計画は、しかし、すんなりと実現したわけではなかった。            二年生になったばかりの四月、雅彦が夏休の合宿のテーマとして、独自に海外遠征を部会で持ち出した。部の同級生の陽一と正明が雅彦の計画に賛同し、参加を表明していた。  部で二年生が海外遠征を自ら企画するのは前例のないことだった。毎年、夏合宿の計画は、部会で上級生の意見を中心に統一的なテーマが決められていた。          永年、連綿と受け継がれてきた伝統的な手法と雰囲気に縛られてきた上級生は、ほとんど本能的に雅彦たちの計画に反対し、計画を中止するよう彼らに圧力をかけてきた。 <まだ国内の山もろくに登っていないのに、海外遠征などもっての他だ>         というのが上級生の言い分だった。    「海外遠征なんぞは三年生になってからだ。 技術もろくにないくせに無理だろう」 三年生の清水が眉をつりあげて反対の口火をきった。三年生のなかでも最も理屈っぽい上級生だった。 「そうだとも。まず国内の山に馴れて、基礎技術をきちんと身につけてから考えればいいことだ」 他の上級生も口をそろえて続いた。 「だいたい君らが言っている山は岩山じゃないか。ロック・クライミングができなきゃ登頂なんかできないだろう」 また、別の反対意見がでた。 「それに費用はどうする。かねはどうするんだ」 費用の面からも疑問が呈された。 反駁の嵐だった。 だが、襲いかかる論駁の束に、雅彦は不思議なくらい脅威を感じることはなく、落ち着いた気持ちだった。それら一つひとつについて、誰をも納得させる正当性がないことを反証できる、と彼は思っていた。
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