第1章

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部長もこの意見に同意し、大方の他上級生も賛成せざるを得なかった。         伝統ある部の方針が大きく転換した瞬間だった。  それから七月の遠征にむけて、雅彦たちは準備に邁進した。資金はアルバイトで捻出した。アルバイトは、深夜の塗装工場でタンクにこびりついたペンキを清掃するという消耗する仕事だったが、まもなく実現する遠征を思うと、彼らはたいして苦にならかった。雅彦は、遠征という希望が叶ったことを勿論嬉しく感じたが、頑なに護られてきた部の因襲的なシステムを変えられたことをさらに喜んでいた。  雅彦、陽一それに正明の三人は新幹線で広島に向かっていた。列車が新大阪駅を離れる ころには陽が沈み、窓には夜空が映っていた。 向い合せにした席に彼ら三人と六十前後の男が坐っていた。 「君らどこまで行くんだい」 小太りのその男は人のよさそうな笑顔で尋ねた。 「広島まで行きます」 陽一が応えた。 「そうかい。君ら大きなリュックサック持ってるけど山登かい」 「ええ、そうですが」 正明が応えた。 「広島に登るような山があったかなあ」 男は訝るように訊いた。 「いえ、広島の山じゃやなくて、僕らは広島から船に乗ってボルネ島に行くんですよ」 「ボルネオ島だって」 「ええ、マレーシアの」 雅彦が応えた。 「そうだったのか。それで、船はいつ出るんだい」 男は、雅彦の予想外の返答に戸惑っていた。 「明日の朝の予定です」 「そりゃ、強行軍だ」 男は微笑んで言葉を継いだ。 「ええ、まあそうなんですが」 「まあ、君らは若いからな。だが、怪我なんかしないように気をつけるんだよ」  この遠征が決まったとき、彼らは費用の見積を行った。幾つかのケースを想定して様ざまなシミュレーションをした結果、最も高いのが航空運賃だった。           ボルネオまでの往復の交通手段をどうするか考えていた時、部の後輩のひとりが雅彦に声をかけてきた。              彼の父親は神戸の海軍会社の取締役だった。彼は、その会社には日本とマレーシアを往復する少数の乗客を乗せる貨客船があり、特別な依頼があった場合には乗客を運ぶ、という話をした。           運賃の安い船が利用できれば、なけなしの予算が随分たすかる。雅彦はその後輩に父親との仲介を頼のみ、その船会社から乗船の承諾を得た。
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