第1章

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日本の経済をリードしている、雅彦は商社にそのようなイメージを抱いていた。            しかし入社早々、そんな甘いイメージは吹き飛んだ。そこは年功が支配する世界だった。入社年次が一年でも早い先輩社員の言葉は一言一句が重みを持って語られた。     雅彦の配属された課の課長は八人の課員を擁し、まるで小企業のオーナーのように振る舞っていた。彼の思考や指示は絶対的な権威と力を持って課員に浸透していた。     入社後三か月ほどたったころには、雅彦は、この課という単位がひとつの運命共同体であることに気づいていた。         このちいさな組織は高度に訓練され、研ぎ澄まされた戦闘集団だった。外の世界とは隔絶し、確固たる上下関係で結合した濃密な人間関係がこの集団のサバイバルを保証しているかに思えた。  雅彦はそんな人間関係に息苦しさを覚えていたが、またその反面、家族的な雰囲気に居心地のよさも感じていた。  業務は多忙をきわめ、早朝から深夜におよんだ。入社後数か月は先輩社員からの指示に戸惑い、怒鳴られる日々が続いた。     入社後三年もたつと、彼の心には蓄積した疲労のなかで商社の仕事とはこんなものだという諦めのような感覚が芽生えていた。しかし、この心の反応に抗するかのように、毎日判で押したように繰り返される決められた業務に、これでいいのか、という不安もつきまとい始めた。  めずらしく仕事が早くかたづいたある金曜日、雅彦は会社の同期の島村謙治と新橋の小料理屋で呑んでいた。彼とは社内の新人研修で知り合った。それ以来、なぜか気があい一番の呑み友達となっていた。         彼は雅彦の所属する海外営業部と隣り合った輸入営業部に属していた。        五十を過ぎた佳代子という女将が切盛りする店は、謙治が見つけてきた。四人がやっと座れるほどの白木のカウンターに二人は席をとっていた。 「最近の状況はどうだい」 雅彦が謙治の盃に冷酒を注ぎながら訊いた。 「うん、相変わらずだよ。仕事にもだいぶ馴 れてしまったし。君はどうだい」 謙治はお通しにだされた酢の物を口に運び ながら訊き返した。 「初めのころは慌てることも多かったけど 近頃はすっかり手馴れた感があるよ」 雅彦は盃を手に持って続けた。 「でも、最近はこれでいいのかな、と思うんだ」 「へー、それどういう意味だ」
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