第1章

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「つまりだな、毎日同じようなことを繰り返していていいのか、ということさ。まるでプログラミングされたコンピューター・ソフトみたいじゃないか」 「そりゃそうだけど」 謙治は怪訝な表情で応えた。 「そこなんだよ。今みたいなことが、ずー っと続くのかと思うと、なんだかおぞましくなってくるんだ」 雅彦は不安気に言葉を返した。 「大げさだな。そんなことないさ。世の中 は変っていく。僕らの仕事も生活も変わっていくんだよ」 「そうかな。そうだといいけど」 「君は先回りして考え過ぎなんだよ」 謙治は笑いながら盃の酒を呑みほした。 「なんだか難しいお話ね。さあ、今年の初 物を召し上がれ」 女将がカウンター越しにマツタケの土瓶蒸を差しだした。 「うわー、マツタケか」 謙治は表情をくずして喜んだ。雅彦は鼻孔をくすぐる料理の香りで季節が変わったことを感じた。佳代子の手料理はいつも旬のものを巧みに取りいれ、常連客の間でも評判が高 かった。 「今夜の佳代子さんは一段と綺麗にみえますよ」 謙治が土瓶蒸をすすりながら言った。 「まっ、綺麗にみえるだなんて、失礼しちゃうわ」 佳代子は魅力的な笑顔で応えた。 「色っぽいねぇ、また銀座に戻れるじゃない」 謙治がいつもの調子でひやかした。     佳代子は以前銀座の有名クラブの売れっ子で、歳を感じさせない白く艶やかな肌と妖艶な雰囲気を持っていた。粋に着こなした和服で太り気味の体形も隠すことができた。   謙治は彼女を気に入っていて、雅彦をよくこの店に誘った。雅彦もそのことを承知で彼の誘いにのっていた。雅彦も、気立てがよく会話のセンスもいい彼女に好感を持っていた。 「男の人は大変ね。最近の不景気で苦労も多いでしょう」 「そうなんだよ。急に円高になって僕の商 売はあがったりさ」 自動車用品の輸出をしている雅彦が眉をひそめ、口をとがらして言った。 「そうかい。こっちは円高で輸入価格が下 がって絶好調だけど」 輸入担当の謙治は余裕をみせて笑った。 「あら、二人の言ってることってまったく逆ね」 「そう、輸出と輸入じゃ状況が真逆なんだよ」 雅彦が言葉を返した。 「そうなの、同じ会社でも担当がちがうと色々あるのね」 「会社全体としては、輸出と輸入のバラン スがとれているから問題はないんだろうけど、やっぱりこの不景気から抜け出さないとどうにもならないね」 謙治が深刻な表情で応えた。
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