第1章

6/86

0人が本棚に入れています
本棚に追加
/86ページ
雅彦は社長からそう呼ばれていた。六十歳をこえている彼は短い銀髪をきれいに撫でつけ、紳士然とした立派な風貌をしていた。この人のよさそうな社長は、しかし交渉相手としては難敵だった。 「値段のこともあるが、今回は品質問題だ」 ソファに坐るやいなや、社長は切りだした。雅彦はオークランド支店経由で、品質問題についてある程度情報をえていた。 「ええ、問題の概略は聞いています。早急に解決したいと思います」 雅彦は毅然として応えた。 「そうか、マークがそう言ってくれるなら 安心だ」 社長は表情をくずし、雅彦の率直な態度を歓迎した。  その夜、雅彦は社長宅のディナーに招待された。                  市内のホテルにチェックインをすませ、夕刻タクシーで社長の自宅へ向かった。社長宅は広い芝生の前庭を持った二階建の瀟洒な建物だった。                 ディナーには社長の妻と二人の息子、それに近所に住んでいるという社長の妹が同席した。                   アペリティフに続き、地元の素材を使った料理が次々と運ばれた。グリーンピースのスープ、鹿肉のステーキ、ロブスターの塩茹、さまざまな野菜をとりまぜたサラダ。それらのいずれもが雅彦にとっては新鮮に感じられ、舌を満足させるものだった。 食事が始まるとワインが振る舞われた。地元のワインは白も赤も口当たりがよく、これまでに経験したことのない優しい味だった。  彼は勧められるままにグラスを重ねていった。 長い食事が終わると、リビングルームに移った。デザートには自宅の庭で採れたというパッションフルーツとバニラアイスクリームがだされた。温暖な気候のおかげでさまざまな果物が年中採れるという。 「マーク、我々はこれでいこう」 社長がブランデーをグラスに注いで雅彦に勧めた。二人の息子たちも雅彦の左右に隣りあって坐った。              酔いのせいで話がはずんだ。彼らは日本に行ったことがなく、日本についての知識もほとんど持ちあわせていなかったが、日本に強い興味を抱いていた。 「日本は随分便利だと聞きましたが」 三十歳前後の兄のネイサンが訊いた。 「ええ、便利はいいですよ。東京では何で も手に入るし、交通は特に便利です」 雅彦が応えると、ネイサンはいっそう好奇の眼を強めて訊き返した。
/86ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加