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もうずっと長いこと、嵌めていることすら意識していなかった薬指の指輪が、不意に質感を変えた気がした。
数日後。青羽のアドバイスが良かったのか、鉢の中に小さな蕾がついた。
……彼に報告しなくちゃな。
淡く色づいた蕾に指先で触れながら。
誰よりも彼女を思い出すはずのこの花に、別の人間が結びついてしまった事に。罪悪感めいたものを感じずにはいられなかったけれど。
「あ、いらっしゃいませ!」
書店に行くと、青羽がカウンターから身を乗り出すようにして声をかけてきた。ふさふさとした 尻尾をぱたぱたと振っている大型犬を、なんとなく連想する。
隣に立っていた女性店員が、呆れたような表情をちらりと見せた。
「花、元気ですか?」
「ああ、おかげで蕾をつけた。……咲いたら見に来てくれ」
彼の方から話を振ってきてくれて、ちょっとほっとする。
「君が早く上がれるのはいつ?」
思い切って切り出すと、え?と彼の目が見開いた。やっぱり唐突だったかと、思わず視線が泳ぐ。
「その……この間のお礼に、食事でもと……」
気後れした語尾が口の中で消えた。
「えええっ!」
彼の大声にレジの女の子が振り向いた。意表を突く反応に、顔に血が上る。「いや、あの、別に君が嫌なら無理にとは」
「いきますお願いします嬉しいですっ!」
最後まで言わせも果てず、青羽が一息にまくし立ててくる。レジ脇に貼ってある紙を見て、明後日が早番だと告げてきた。
「じゃあ、連絡する……君の携帯を教えて貰ってもいいかな?」
「はい、えーと」
携帯を取り出した青羽が画面を開く。
「……事件が起こらないことを祈っていてくれ」
冗談半分の言葉に、はい!と彼が満面の笑みを浮かべた。
「わ、咲きましたね」
「君のおかげだ。ありがとう」
鉢植えを見たいと青羽が言うから、食事に行く前に官舎に寄った。淡いピンクの花が小さく開いている。
「せっかく咲いたんだ。枯らしてしまわないよう、せいぜい気をつけないとな」
「……もしかして、奥さんの好きな花、とか?」
いきなり訊かれて思わず彼を見た。見つめてくる黒い大きな瞳をなぜか正視できずに、視線を逸らす。
彼女の好きな花だったのは本当だったけれど。そう聞かれるまで意識していなかったから。
この花を愛でていた彼女の横顔がもう遠くなっている事に、初めて気づく。
儚い笑み、細い白い指先……自分を呼んだ声さえも。
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