はじまりはある客人の訪問

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「自分はあくまでも奇術師で、千里眼のような特殊な能力の持ち主ではない」  最初に話を聞いた時、聡一はきっぱりとそう断ろうとした。だが、ふと彼の頭には名案が浮かんでいた。  伊勢佐木町にある劇場から浅草の文明座に移動する休演中、『磔の術』を習いたがる娘の華子を厄介払いできる絶好の機会かもしれないと。  華子がまだ幼い頃に抱いた期待や野望は、そそっかしい性格や父親譲りの減らず口のせいで、シャボンの泡のように儚く消えつつあった。  鳶色(*猛禽・鳶の羽毛の色のような赤暗い茶褐色)の豊かで長い髪に、夏空に浮かぶ雲のように真っ白な肌。  紅をさしたように赤い厚めの唇には、絶えず笑みが浮かんでいる。つんと澄ましたような高い鼻には独特の愛嬌があり、長い睫毛に縁取られた大きな茶色の瞳に見つめられると、誰もが思わず吸い込まれそうになる―― 黙って座っているだけならツバキの花のように清楚で可憐な美少女だが、一秒でも動き始めたら何をしでかすか、父親である聡一にも皆目見当がつかない。  その上、一言も二言も余分な達者な喋り口調で、周囲の人々を閉口させてしまうところがある。  熱心に奇術を習おうとする志は嬉しいが、親の贔屓目(ひいきめ)で見ても娘には奇術の才能はないようだ。  それならば、いっそのことできるだけ奇術から遠ざかっていた方が、将来あの子のためになるかもしれない。  そういえば…… 「是非ともお嬢様を私共の主人の花嫁に迎えしたい」  数年前、舞台終わりに現れた品のある中年の紳士から、華子の縁談話を持ち掛けられた。  あの時は突然の申し出に戸惑い、断ってしまった。
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