糸屋綺譚

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「いらっしゃいませ」  鈴を鳴らしたような声、という表現がぴったりな、可愛い声で少女がこちらに手を差し伸べます。「どうぞ、お入りください」  きょろきょろとあたりを見渡しますが、少女の瞳はまっすぐにわたしを射抜いていて、不思議に思いながらも、時間を持て余していた身としては、その誘いは嬉しいものでした。  古い磨りガラスのはめ込まれた戸を引いて、中に入ると、深い藍色の着流しを着た男性が佇んでいました。その人は、ゆっくりとわたしの方を振り向くと、「いらっしゃいませ」と、低く、でもよく通る声で仰りました。  その顔を見て、わたしは思わず息を呑みました。何故なら、その男性は、能面をつけていたからです。まったく表情のわからない、少し見たらどこか不気味なその面に、何故かわたしは惹き込まれてしまったのです。表情はわからないけれど、その静かな佇まいと、優しい声音がそうさせたのでしょうか。どこかで聞いたことのあるような、ずっと昔に忘れてしまったような、なんとなくの懐かしさを孕んでいる声に、一瞬だけ訪れた動揺は姿を消してしまったのです。 「あの……ここは、何屋さんなんですか?」  ぐるりと店内を見渡しても、狭いお店の中にはひとつのテーブルと二脚の椅子しかなく、商品と呼べるものは何一つ置いてなかったからです。 「ここは、『糸屋』です」 「糸……?」だけど、どこにも『糸』らしきものは見当たりません。なんだか狐に摘まれてしまったような感覚がしました。
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