3.母親

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その奇妙な店は、ひと月前まで娘が働いていたレストランの真裏にあった。 娘の勤め先へ、わずかばかりの私物を引き取りに行った帰り道。 思わず立ち寄ったのは、その店が昔よく通ったお気に入りのバーにそっくりだったからだ。 真っ白な髪をした少女に、カウンター席へ通される。 「ウイスキーを」 強い酒が飲めるなら何でも良かった。アルコールにでも頼らなければ、自分が何をしでかすかわからなかった。 素っ気なく注文すると、すかさず琥珀色の液体で満たしたショットグラスが差し出される。 「いらっしゃいませ。ようこそ幻日亭へ」 聞き覚えのある声に顔を上げ、驚きのあまり息を飲んだ。カウンターの向こうに、高校生の時に憧れた初恋の人が立っていた。 「先輩……?」 端正な面長の顔、銀縁の眼鏡。顔、短く刈った髪にすらりと背が高い体にまとった学生服。穏やかな、ゆっくりとした低い声。 一瞬、自分が高校生に戻ったような錯覚に包まれる。 「いいえ。私は幻日亭の主人、胡蝶と申します」 懐かしさと混乱のあまり、飲めもしないウイスキーを一息で空にする。 お酒が口をゆるめたのか、それとも誰かに聞いてほしかったのか。 ぽつぽつと会話を交わすうちに、私は娘の死とそれに伴う一連の出来事を、初対面の店主に打ち明けていた。 「当店はお客様の望みを叶えるため、あらゆる“幻”を提供しております」 冗長な私の話を聞き終えた店主は、慰めを口にするわけでもなくそう言った。 「……幻?」 酒が回ったせいか、言葉の意味がよく分からず聞き返す。眼鏡の奥の瞳が、じっと私を見つめた。 「はい。あなたの“望み”は何ですか?」 店主の姿がぐにゃりと歪む。目を凝らした次の瞬間、目の前には娘の上司が立っていた。 カウンター越しに、傲然と私を見下ろす顔と目が合った瞬間、まるで冷や水を浴びせられたように全身が硬直する。 「――――殺してやりたい」 自分のものとは思えないほど、低く暗い声が口をついて出た。
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