3.母親

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しかし次の瞬間、目の前には再び先輩が――先輩と瓜二つの姿をした店主が立っていた。 毒気を抜かれた私に、小さな瓶を差し出す。 「かしこまりました。では、こちらを」 手のひらにすっぽり収まるサイズの透明な小瓶の底には、ビーズのような黒い粒が一つ。 「……これは?」 「脱魂丹というものです。源氏物語の六条御息所をご存知ですか?」 古典は得意科目だった。 確か光源氏の一番最初の愛人で、嫉妬に狂うあまり、生霊となって正妻の葵の上を死に至らしめたという…… 「脱魂とは文字通り、魂が肉体から抜け出すこと。これは意図的に“生霊”を作り出す薬です。食を断ち身を慎み、七日間の精進潔斎を経てこの丹を飲めば、あなたの魂をほんの一刻、全てのしがらみから解き放つことが出来る」 銀縁の眼鏡が間接照明を反射する。 「これが当店でお客様にお出しできる幻の一つ、“妄”です」 雰囲気に飲まれそうになっていた所を、一気に落胆した 「……幻じゃ意味が無いわ」 「勘違いなさる方が多いのですが、全ての幻がフィクションに始終するわけではありません」 思わず顔を上げた私に、店主は記憶の中の先輩と同じ笑顔で微笑む。 「精神が肉体を凌駕するように、現実を捻じ曲げる幻も稀に存在するのです。それこそ肉体の檻を捨て生霊となり、本懐を遂げた古の貴人のように」 一念岩をも通す、信仰は山をも動かす。 歌うようにそう言って、店主は私の前に3杯目のウイスキーを置いた。 「この幻が実を結ぶ時、お客様の望みはきっと叶うでしょう」 それからどうやって家に帰ったのか、全く覚えていない。気付けば自宅のソファに横になっていた。 夢かと思いきや、バッグの中には店主から買った小瓶に丸薬があった。それを見て、自分が何をすべきか瞬時に悟る。 ウイスキーをストレートで何杯も飲んだのに、二日酔いもなく頭はひどく冴え渡っていた。
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