1.父親

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その奇妙な店は繁華街から少し外れた細い路地の突き当り、ひと月前まで娘が働いていたレストランのほぼ真裏にあった。 こんな所に、喫茶店などあっただろうか。思わず足を止めた私を誘うように、黒檀の扉が内側から開く。 中から顔を出したのは、黒の給仕服を身にまとった白髪の少女だった。 腰の近くまで伸びた髪は、漂白したように白い。まだ14、5ほどの幼い外見には明らかに不釣り合いなものだった。 「いらっしゃいませ。一名様ですか?」 たじろぐ私に向かって、少女は鈴の鳴るような声で問いかける。 入るつもりは無かった。しかし疲労と倦怠で麻痺た頭は、反射的に幼い給仕の言葉に頷いた。 「どうぞ、こちらへ」 間接照明の柔らかな灯りに照らされた店内は薄暗く、くすんだ暗色の壁や調度品は目に優しい。昔、祖父母によく連れていってもらった純喫茶と似た佇まいをしていた。 一枚板のカウンターに通され、奥から白衣をまとった女性が現れる。 「いらっしゃいませ。ようこそ幻日亭へ」 白衣の上で私を見下ろした怜悧な美貌に、息を飲む。それは数十前、まだ大学生だった時にお世話になった助教授と瓜二つの顔をしていた。 「せ、先生?」 「……おや、久しぶりのお客様ですね。ミラ」 女性が目配せすると、白髪の少女は扉を閉める。 「どうして、こんな所に」 「どなたかと勘違いしていらっしゃるようですが、私はここ【幻日亭】の主、胡蝶と申します」 そう名乗る白衣の美女に、ハッと我に返った。 (そうだ、先生がこんなに若いわけがない。最後に会ったのは、二十年年以上前なのに……) 「す、すみません。よく似た知り合いがいたので……」 「お気になさらず。このような四阿(あずまや)にいらしたのも何かのご縁。どうぞごゆるりとお過ごしください」 優雅にほほ笑むマスターに、脱力するように背もたれへ体を預けた。 こぢんまりとした店内によく透る中低音の声すら、はるか記憶の彼方となってしまった憧れの恩師とよく似ていた。
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